魯粛(ろしゅく)

[中国−後漢末]

後漢末の武将・政治家。字は子敬。 周瑜の死後その後継者となり孫権陣営の軍事を支えた。 裕福な豪族の出身であったが、 家財を投げだして困っている人を助け名士と交わった。 さらに武芸を習うだけでなく私兵を集めて軍事教練までしたため 郷里の人々には理解されずキチガイ扱いされていた。 周瑜が援助を求めた際に二つもっていた倉の内片方をまるごと与え、 魯粛の非凡さを認めた周瑜と親交を深めた。 その後一時袁術配下となったが、支離滅裂な袁術に見切りをつけて周瑜を頼り、 その主の孫策にも尊重された。 孫策が暗殺された頃魯粛の祖母が死去し、一旦故郷の徐州東城に戻って葬儀を行った。 この時友人の劉曄(後に曹操に仕官)に誘われたが、周瑜に説得されて思いとどまり、 当主となったばかりの孫権に仕えることになった。 孫権に大いに気に入られて酒を酌み交わしながら天下を論じ、 北の強大な曹操に対抗して江東と荊州を制圧して割拠し、 自ら帝王となる言わば「天下二分の計」説いた。 荊州の劉表が死去すると弔問の使者となったが、 途中で曹操が軍を率いて南進し荊州が降伏したことを知った。 魯粛は降伏を拒み逃走していた劉備と面会し、 曹操に対抗するため同盟を持ちかけると喜んで受け入れられた。 その後諸葛孔明と連れて帰還すると陣営内では降伏論に傾きかけていた。 魯粛は孫権に「殿は我らと違って降伏しても身の置き所がありません。」 と言って説得して容れられ、使者となっていた周瑜を呼び戻した。 周瑜と魯粛は共に抗戦を主張して降伏論を退け、 軍を率いた周瑜とそれを補佐した魯粛は曹操軍を赤壁で破った。 戦後劉備が荊州南郡を制圧し、その支配権を孫権に求めた。 周瑜や呂範といった軍の重鎮はこれに反対したが、 魯粛は曹操に対抗するために同盟者の劉備に力を与えるべきと考え賛成し、 結局孫権は劉備の荊州南郡を「貸す」ことを認めた。 周瑜が死去するとその遺言で後継者となり、 軍のまとめ役となった。 周瑜の益州攻略に反対した劉備が自ら益州を攻略すると関係が悪化し、 荊州を守っていた関羽との間で紛争が起こるようになった。 劉備が益州を完全に併呑すると孫権は三郡の返還を求め、 これを断られると呂蒙に命じて三郡を平定した。 三郡に役人を送り込もうとすると関羽が妨害し、 孫権・劉備も出陣して一触即発の状態に陥った。 出陣した魯粛は関羽と兵馬を下げて一対一で会見し、 荊州の二郡を返却させることに成功した。 その後46歳で死去した。 後任は当初学者の厳oを起用しようとしたが、 本人が固辞したため呂蒙が選ばれた。
三国志演義では孔明の引き立て役として周瑜は偏狭、 魯粛はお人好しにされてしまったが、 実際の魯粛は豪傑関羽と対峙しても物怖じせず渡り合い、 二郡返還を取り付けた胆力の持ち主である。 後年孫権が呉の皇帝となったとき、 「周瑜がいなければ皇帝になれなかった。 そして魯粛はにはこうなることが分かっていたのだ。」 と述回し思いを馳せた。 特に戦略面に優れ、早い時期から孫呉の取るべき方針を打ち出し、 三国の一端を担うまで導いた功績は大きい。 早くから孫権を帝王にすることを目標としていたことから、 光武帝劉秀に帝王となることを勧めたケ禹に例えられた。 劉備・関羽に対して融和的であったことから孫権に批判されたが、 以後の推移を見るに(天下を取ろうとしていないので増えた領土を生かせていない) 大局的に見て間違っていたとは思えない。 やはり戦略家としては抜きん出た存在だったと言えよう。

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