ロンメル

[ドイツ−第2次世界大戦]

「砂漠の狐」と呼ばれた名将。 本名エルヴィン=ヨハンネス=オイゲン=ロンメル。 教師の息子として生まれ、士官学校に入って歩兵の士官となった。 第1次大戦で功績をあげ、敗戦後も削減された軍の中に残った。 貴族(ユンカー)出身者が幅を利かせていた当時、 コネの無いロンメルはそのまま地味に終わるはずであった。 しかし「歩兵の攻撃」という本を 書き、これがヒトラーの目に留まり、 引き立てられることになった。 第2次大戦の始まりであるポーランド侵攻では護衛隊司令官であったが、 その後自ら願い出て第7装甲師団長となった。 数ヶ月後のフランス戦役では戦車の特性を完全に把握し、 目覚しい活躍を見せた。 この時点でロンメルは歩兵の権威から戦車戦の名将へと転じていた。 1941年、北アフリカでイタリア軍が苦境に陥り、 その支援のためアフリカ軍団長に任命された。 ここで物量の面で圧倒的に不利にも関わらず、 イギリス軍相手に優勢に戦いを進め、 戦略的要衝であるトブルクを陥落させた。 彼はその迅速な行動と砂漠の地形を生かした神出鬼没で敵を翻弄し、 作戦が漏れていても逆にそれを利用するという知略で 常に戦場を支配していた。 このことから「砂漠の狐」の異名がついた。 この功績で軍人として最高位である元帥に昇進し (もっとも当時のドイツに元帥はたくさんいたが)、 敵であるチャーチル首相ですら能力を賞賛せずにはいられなかった。 しかし、ドイツは東部戦線で苦戦していたため物量の不利は続き、 ロンメル自身健康を害したこともあり、 遂に新任の「砂漠の鼠」モントゴメリー将軍に敗れ、 ドイツは撤退を余儀なくされる。 その後もロンメルは主に西部戦線の司令官として働く。 ノルマンディー上陸作戦の時にも司令官の1人として参加した。 ドイツは上陸地点をカレーと見ていたが、 ロンメルはノルマンディーも疑っていた。 彼は水際での防衛を主張したが、長老ルントシュテットと意見が対立し、 また上層部が中途半端な決断を下したため、結局上陸を許してしまった。 (似たようなことが大坂の陣でも起こっている。 この時は後藤又兵衛がロンメル、 真田幸村がルントシュテットの立場だった。) 戦いの中、 ロンメルはヒトラーがドイツの為にならないことにようやく気付いた。 彼は若手将校のヒトラー暗殺を支援したが、暗殺は失敗、 ロンメルの支援も発覚し、服毒自殺させられた。
彼が教師の息子でコネが無いにも関わらず 最年少の元帥となり名将の名をほしいままにしたのは、 1つはヒトラーが英雄を作り出したことがある。 ナチの宣伝戦略の一環に組み込まれていたのである。 しかし、それ以上に彼自身の能力が優れていたからである。 北アフリカでの不利な状況での数々の勝利は、 彼が第2次大戦中でトップクラスの名将であることを示している。 一方、ヒトラー暗殺未遂に関わったため終わりを全う出来なかった。 彼の場合、ナチの害に気付き行動するのが遅すぎたと言えよう。 彼に限らず、 ドイツ軍人にはナチやヒトラーに反感を持っていた者は少なくなかったが、 行動に移した者は少なかった。 この辺り、典型的軍人の限界と悲しさであろうか。

オマケ
アメリカ・イギリスはイラク攻撃作戦に「砂漠の狐」の名をつけた。 この名将の名をつけた割には、 他国の反感を買っただけで中途半端な成果に終わり、 名将に対して失礼だと思うのは私だけだろうか。

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