ローマ

[ヨーロッパ]

古代ローマの首都であり、ローマ教皇の在地であり、 現在イタリアの首都である都市。 ラテン人が中部イタリアに建設した都市であり、 伝説ではトロイアの英雄の子孫である ロムルスとレムスの兄弟が建国したことになっている。 始めは他の都市国家と同じく王制から始まったが、 やがて王が追放され、共和制となった。 北にエトルリア、 南にギリシア植民都市という大きな勢力に挟まれていたが、 徐々に勢力を拡大し、やがてイタリア半島を統一する。 西地中海の覇権をフェニキアの植民都市であるカルタゴと争いこれに勝利、 さらに勢力を拡大する。 その後着々と勢力を広げる中、 内部では共和制を牛耳る貴族派と権利の拡大を求める平民派の対立が激化、 内乱状態となる。 一時はスラが終身独裁官となり貴族派が勝利したかに見えたが、 その死後アントニウスやカエサルといった有力者の台頭で 貴族の共和制は事実上崩壊する。 やがて平民派であるカエサルが勝利者となったことで共和制は終焉する。 このユリウス=カエサルとその後継者である オクタヴィアヌスによって帝制が始まる。 帝国となったローマはさらに発展し、 いわゆる五賢帝の時代に最盛期を迎えるが、徐々に活力を失って衰退、 危機の時代に突入する。 活発になった外敵の侵入に対し、 英雄的な軍人皇帝によって侵略を押さえつつも、 帝国内部の混乱によって国力は著しく衰退する。 この混迷は「天性の統治者」ディオクレティアヌス帝の統一まで続いた。
ディオクレティアヌスは帝国を分割し、 自分を含めた2人の正帝と2人の副帝で広大な帝国を収めた。 その際、自分は東の正帝となり、在所をニコメディアとした。 このことからも、 すでに都市ローマの帝国内での地位が既に低下していたことが分かる。 さらにディオクレティアヌスの退位の後の混乱を収め、 再び帝国を統一したコンスタンティヌスは、 ビザンティウムに新しい首都コンスタンティノープルを建設し、 ローマの街は完全に帝国の首都では無くなってしまった。 最後の統一皇帝テオドシウスの死後、 ローマは西ローマ帝国の首都ではあったが、 内乱と続くゲルマン人の侵入によって、帝国共々壊滅してしまった。 東の帝国であるビザンティン帝国がイタリアを支配した時も 総督府はローマではなくラヴェンナに置かれた。 その後都市ローマが地位を回復するにはフランクのカール大帝による ローマ教皇への援助を待たなくてはならなかった。
フランク王カールはローマ皇帝位の代償として、 教皇に中部イタリアの領土を寄進した。 これによって教皇は俗界での勢力を手に入れ、 ローマも再び重要都市の地位に返り咲いたのである。 フランク王国の分裂後、 新たに皇帝の地位を手に入れた神聖ローマ帝国とローマ教皇は、 ヨーロッパの覇権をかけてしばしば対立した。 帝国は内部の不統一のため中核となる都市が無かったが、 ローマは教皇の在所、そしてかつての帝国の首都として栄えた。 このローマの繁栄は、 途中略奪の憂き目を見たものの大体近世始めまで続いた。 近世に入ると地中海一帯の地位が低下し、 それに伴ってローマの地位も低下した。 特に、ナポレオンが教皇の手を借りず皇帝になったことにより、 教皇の世俗での地位が大きく後退した。 しかし、国民国家建設の気運に乗りイタリアを統一したサルディニアは この「特別」な街ローマを首都に選んだ。 その後2つの大戦やファシストの支配を経て、 現在もローマは教皇の在所であるヴァチカンがあり、 イタリアの首都である。 また、その歴史故に現在では観光が重要な産業になっている。

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