ロバート=エドワード=リー

[北米−近代]

アメリカの軍人。 南北戦争時に南軍の主力である北バージニア軍を率い、 劣勢な兵力で北軍と互角に渡り合った名将として知られる。 アメリカ独立戦争で騎兵士官として英雄視されたヘンリー=リーの子として バージニア州で生まれたが、 父が投機に失敗したため経済的に苦しい少年時代を送った。 長じて陸軍士官学校に入り、次席で卒業し軍人となり、 米墨戦争で武勲を立てた後士官学校校長などを歴任した。 南北戦争時には北軍の陸軍総司令官であったスコットに評価され、 リンカーン大統領に司令官就任を要請されたが、 故郷のバージニア州が合衆国から離脱すると故郷に付くことにし、 合衆国軍を辞職して南軍に加わった。 南軍では首都近郊地域の司令官や大統領軍事顧問を歴任したが、 主力である北バージニア軍の司令官ジョンストン将軍が負傷すると 後任の司令官となった。 リーは早速その手腕を発揮し、北軍のポトマック軍による侵攻を撃退した。 以後北バージニア軍を率いてポトマック軍と度々戦い、 劣勢な兵力ながら一進一退の攻防を繰り広げた。 ゲティスバーグの戦いで敗れると辞任を申し出たが、 粒ぞろいの南軍司令官の中でも リーの代役が務まる人材が居なかったため留任となった。 別動隊が担当する西部戦線で敗戦が続き、 グラントが北軍総司令官となって兵站線を攻撃するようになると 徐々に追い詰められていき、 南軍総司令官に任命されたがこの時点で挽回は出来なくなっており、 首都陥落後にグラント総司令官に降伏した。 部隊を解散して逃亡しゲリラ戦を続けるよう進言した部下もいたが、 リーはこれを退け南軍の残党に投降を呼びかけた。 戦後は恩赦で釈放され、バージニア州のワシントン大学の学長となったが、 間もなく死去した。
リーは北軍司令官に請われる程評価されていたが、 祖国と故郷の板挟みになった際には故郷を選び軍を辞めて帰郷した。 南軍司令官には有能ではあってもアクの強い人物が多かったが、 リーは温厚篤実な性格で彼らを束ね、 劣勢な兵力でも互角以上に戦った。 部下に権限を与える分権的アプローチを好み、 ジャクソン将軍など有能な部下に存分に手腕を発揮させたが、 ジャクソン戦死後は部下の質が下がり精彩を欠いたとも言われる。 劣勢な国力やリンカーン・グラントらの政治・戦略手腕によって最後は敗北したが、 それでも善戦したことや高潔な人柄から名将と評価されている。 なお南軍司令官であったため白人至上主義者から神聖視されてしまったが、 リー自身は奴隷制に対しそれ程強い意見を持たなかったようで、 ジュダ=ベンジャミンが黒人奴隷を解放して軍に入隊させようとした際には これに賛成している。

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