来歙(らいきゅう)

[中国−新・漢]

光武帝劉秀配下の武将。字は君叔。 劉秀の親戚(劉秀の祖父の姉妹の夫)で、 若い頃から親しくしていた。 劉秀らが挙兵すると王莽によって収監されたが、 賓客によって救出された。 更始帝が即位すると登用されたが、 献言が採用されなかったため病を口実に辞去した。 その後漢中王となっていた妹の夫劉嘉に招かれ配下となった。 劉秀が光武帝として即位しその配下であるケ禹の軍が迫ると劉嘉を説得し、 共に光武帝に拝謁して臣従した。 劉秀は来歙を歓迎した上で隗囂・公孫述への対応を相談し、 来歙は隗囂を味方につけるよう進言した。 来歙は隗囂への使者として馬援と共に説得し、 隗囂は子の隗恂を人質として送り出すことに成功した。 しかしいざ公孫述と対決しようとすると隗囂は心変わりしており、 軍を出そうとせず来歙との交渉は決裂した。 裏切った隗囂攻略では司令官を任され、 雲台二十八将の馮異らを従えて戦い、 隗囂の死後跡を継いだ隗純を降伏させ隴右を平定した。 続く公孫述攻略でも司令官として岑彭らを率いていたが、 公孫述配下の環安が放った刺客によって暗殺されてしまった。 その死の間際、後事を託すため雲台二十八将の蓋延を呼びつけたが、 蓋延が悲しみ泣いてばかりであったためこれを一喝したとの逸話が残る。
来歙は臣従した時期は遅かったが、 若い頃から親戚として付き合い頼りにされていたため 雲台二十八将(の上位メンバー)を部下につけられるなど重用された。 特に隗囂との戦いでは優れた統率力を発揮し、 難敵隗囂の勢力を倒し隴右征服を成し遂げた。 雲台二十八将に引けを取らない名将と言えるだろう。 後任の岑彭共々暗殺されたのが惜しまれる人物であった。

見出しのページに戻る
歴史小事典+歴史世界地図に戻る