[ヨーロッパ−近世]
ステュアート朝のイングランド女王。
同時に最初のグレートブリテン(イギリス)王でもある。
ブランデー好きで「ブランデー=ナン」と呼ばれる。
ジェームズ2世の次女として生まれ、
学芸よりスポーツを好む女性であった。
またサラ=ジェニングスとは幼少より親しく付き合っていた。
デンマーク・ノルウェー王の弟ヨウエン(ジョージ)と結婚し、
夫ジョージはカンバーランド公となった。
子供は多かったが、すべて夭折し成人できた子は居なかった。
名誉革命の際に姉の夫であるウィレム(ウィリアム)に降伏し、
姉夫婦の子が居なかったため王位継承者として遇された。
ただしサラ=ジェニングスの夫マールバラ伯ジョン=チャーチルが投獄されると姉メアリと対立し、
一時郊外に隠棲したが、姉の死後にウィリアムと和解し宮殿に戻った。
ウィリアムの死後に女王として即位し、夫ジョージは王配・海軍司令官となった。
当時遂行中であったスペイン継承戦争に本格参入することとなり、
王配ジョージを最高司令官にする案もあったが、
結局マールバラ伯を最高司令官として大陸に派遣し、
その友人シドニー=ゴドルフィンを大蔵卿にして戦争を遂行させた。
また戦争中にイングランド・スコットランド合同法が成立し、
グレートブリテン王国が成立してその女王となった。
戦争は戦功によりマールバラ公になったジョン=チャーチルや海軍により優勢に進めたが、
次第に女王は戦争を倦むようになり、
また当時の与党ホイッグ党を嫌っていて政府と対立するようになった。
ついに友人であったサラ=ジェニングスを宮廷から追放し、
同年の選挙でトーリー党が勝ったこともあってゴルドフィン、次いでマールバラ公を罷免し、
フランスと和平交渉が行われた。
そして締結されたユトレヒト条約によりジブラルタルや北米植民地を獲得した。
女王はブランデーの飲み過ぎからか肥満体質であり、晩年は歩行すら出来ず車椅子を用いていた。
死去した際には棺桶はほぼ正方形であったと言われる。
子供が全て夭折し、異母弟時ジェームスはカトリック信者でイギリス議会と敵対していたため、
親戚のハノーファー選帝侯ゲオルクが後継者として選ばれジョージ1世として即位した。
アン女王の死によってステュアート朝は断絶し、
ハノーヴァー朝が成立した。
アン女王は特に英邁でも大器でもない女王であったが、
在位の間にスペイン継承戦争の勝利により海外領土を獲得し、
またグレートブリテン王国も成立して後の大英帝国の基盤が成立した。
既に王の資質はあまり関係なく議会と政府が政治を動かす時代に入っていたと言える。
この傾向は次代以降のハノーヴァー朝でさらに加速することとなり、
「君臨すれども統治せず」の伝統が生まれることになる。