ピューリタン革命(ピューリタンかくめい)

[ヨーロッパ−近世]

現在のイギリスであるイングランド・スコットランド・アイルランド で発生した内戦・革命。 当時のイングランド王家はスコットランドから迎えたステュアート朝であったが、 イングランドに適応できず各階層と対立していた。 また三十年戦争に資金提供したため財政的にも苦境に立った。 そんな状況の中チャールズ1世は専制政治によって不満を押さえ込んでいたが、 スコットランド・アイルランドで反乱が発生し、 王と議会の対立が深まったイングランドでも内戦に至った。 王の支持派は当時の支配者層である貴族中心で北部・西部が地盤、 議会派は都市部商工業者中心で南部・東部が地盤であった。 議会派には国教会改革派である清教徒が多く強く影響を与えたため、 一連の内戦もピューリタン革命と呼ばれるようになった。 当初は王党派が優勢であったが、 議会派のクロムウェルがニューモデル軍を組織すると形勢が逆転し、 最終的に議会派が勝利した。 議会派内部でも穏健な長老派や過激な独立派などの対立があったが、 独立派が長老派を追い落として主導権を握り、 国王チャールズ1世を処刑した。 イングランドは共和政となったものの財政難を克服出来ず、 クロムウェル護国卿による独裁制に取って代わられた。 護国卿体制でもスコットランド・アイルランドや王党派残党との戦いで 軍事費が膨れ上がり、革命前の王のような強権政治と化していった。 クロムウェルは議会を解散し、支持基盤は軍のみとなっていたが、 クロムウェルの死後は議会の対立がさらに深刻化した ここに及んで王党派が巻き返し、内乱に倦んでいた民衆の支持もあって チャールズ2世が即位、革命は失敗に終わった。
当時は三十年戦争の終盤・直後であったため大陸諸国の干渉は無く、 ほぼブリテン島・アイルランド島のみで完結した。 また革命・その指導者クロムウェルは議会による民主政治を目指していたが、 結局クロムウェル自身が独裁者とならなければ体制を維持できなかった。 この点王政を打倒しながらナポレオンという独裁者を必要としたフランス革命に似ている (ナポレオンはクロムウェルと違って民主主義者では無かったようだが)。 また革命失敗後にも影響を与え次の革命の伏線となった点もソックリである。 ただナポレオンは生存中に外国との戦争に負けて退位・没落したが、 クロムウェルは死後に体制が自滅した点は異なる。 ついでに次の革命の中身も両者随分違っており、 こちらの影響が現在のイギリス・フランスの差にも表れている。

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