[ヨーロッパ−近世]
オーストリアの名将。
サヴォイア公の分家であるソワソン伯の子として生まれたため、
プリンツ(公子)と呼ばれた。
(よって元はフランス人ウジェーヌである。)
母オリンピアはソワソン伯后であるがルイ14世の愛妾でもあった。
長じて軍人となったが、フランスではあまり重用されなかったため
オーストリアで将校となり、母国フランスと戦うことになった。
対オスマン帝国の戦争で騎兵を率いて活躍し、頭角を現した。
大同盟戦争では目立った戦果は挙げられなかったが、
元帥となりイタリア方面の司令官、次いで対オスマン帝国の司令官となり、
オーストリアの勝利・ハンガリー獲得に貢献した。
スペイン継承戦争でもイタリア方面司令官となったが、
陳情中にバイエルンが寝返って首都ウィーンが脅かされたため、
軍事委員会総裁となり全軍の指揮権を掌握した。
その後イングランドのマールバラ公と共にフランス軍を撃破し、
戦況を有利にしていった。
フランスの巻き返しもあり戦況は一進一退であったが、
同盟軍側のスペイン王候補であったカール大公が皇帝となったことで状況が変わり、
フランスのフェリペ5世即位を認める代わりに
ネーデルラント・イタリアの領土を得て終戦となった。
戦後はネーデルラント総督、イタリア副王を歴任し、
また墺土戦争で勝利するなど、
隠居に追いやられたマールバラ公に対し死去するまで華々しい活躍を続けた。
プリンツ=オイゲンは元々フランス貴族であったが、
母国フランスでは能力を見出されず敵国オーストリアへと渡った。
この頃母のオリンピアがスキャンダルによって追放された影響と思われるが、
フランスは軍事的天才をみすみす敵に渡すこととなった。
晩年は従軍していたプロイセン王子フリードリヒを気に入り、
皇女マリア=テレジアと結婚させようとしていた。
結局皇女はロートリンゲン公フランツと結婚したが、
もしフリードリヒと結婚すればプロイセンの大王がオーストリアの大帝となったかもしれず、
歴史は大きく変わっていたと言われている。
またフリードリヒも凡庸なエリーザベトより才女マリアの方が満足できたかもしれない。
尤もマリア=テレジア本人は女を軽んじるフリードリヒより
愛していたフランツと結婚した方が幸せだっただろうが。