ポンペイウス

[共和政ローマ]

ローマの将軍。カエサルの最大のライバル。 イタリアの地方の大地主の息子として生まれ、閥族派の首魁スラの下で頭角を現した。 彼は特に軍事的手腕に恵まれ、 セルトリウスの乱やミトリダテスの乱の鎮圧に大きな功績をあげた。 とりわけ地中海に蔓延っていた海賊討伐で、 3年計画のところを3ヶ月で計画を完了させたことは特筆に価する。 また、シリアのセレウコス朝を征服し、その名声は比類なきものとなった。 しかし、この頃からカエサルが台頭してくる。 カエサルの仲介でクラッススと和解して第一回三頭政治を始め、 執政官としてローマを牛耳った。 しかし、カエサルはガリア遠征でポンペイウスに迫る名声を手に入れ、 ポンペイウスは危機感を募らせた。 そんな中クラッススがシリアでパルティアに敗れて戦死し、 カエサルの娘でポンペイウスに嫁いだユリアも病死、 また復権を目論む元老院の閥族派も接近してカエサルとは一触即発状態になったのである。 ポンペイウスは将才はあったが政治力には乏しかったらしく、 以後元老院のキケロらの言うままに行動してしまう。 カエサルに対して出頭を命じたが、 カエサルが軍団を率いてルビコン川を渡ったことにより両者の対立は内乱へと発展した。 己の地盤である東方で軍団を整えたポンペイウスは バルカン半島のファルサロスでカエサルと戦った。 この名将同士の戦いはカエサルに軍配が上がり、 ポンペイウスは再起を図るためエジプトへと渡った。 しかしここでカエサルを恐れるエジプトプトレマイオス王家によってポンペイウスは暗殺された。 カエサルは自己のライバルであるが尊敬もしていた名将の死に涙を流したと言われる。
ポンペイウスはカエサルと並んで当事世界最高級の名将である。 海賊討伐やシリア遠征の手腕は古今の名将と比較しても引けを取らない。 しかし政治手腕には乏しく後年は元老院の言いなりに近くなってしまった。 カエサルとの勝敗を分けたのもこの部分が大きいのではないだろうか。 政治で敗れた後軍事で挽回しようとしても上手くいかないことが多いようである (秀吉と柴田勝家もそうだった)。 とは言え彼もまたローマを築いた英雄の一人である。

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