ピョートル1世

[ヨーロッパ−近世]

ロシア帝国のツァーリ・初代インペラトール(皇帝)。 ロシアをヨーロッパ列強に押し上げた手腕から「大帝」と称される。 ツァーリであるアレクセイの六男として生まれ、兄の死により幼くして即位した。 しかし兄弟の間の政争によって郊外に追いやられ、日々戦争ごっこを繰り返していた。 ピョートルが成長した頃に実権を握っていた姉ソフィアとゴリツィンが失脚し、 その後母が死去すると親政を開始した。 最初不凍港を求めてオスマン帝国と戦い、アゾフ海の制海権を手に入れた。 しかしそれ以上の拡大はロシア単独では不可能であったため外交活動に注力した。 200人を超える使節団を西欧諸国へ派遣し、さらに自ら偽名を用いて使節団に加わった。 さらにオランダでは船大工として働き、また歯医者から抜歯を手ほどきを受けるなど 自ら積極的に西欧技術を習得に努めた。 しかし本来の目的であった対オスマン同盟は不調に終わり、 ポーランド王との会談で拡大方向を黒海からバルト海へと変更した。 当時バルト海沿岸を支配していたスウェーデンとの対立を深め、 ポーランドにデンマーク=ノルウェーを加えて反スウェーデンの北方同盟を結んだ。 大北方戦争が始まると当初はカール12世率いる精鋭のスウェーデン軍に惨敗したが、 軍の近代化に努めつつ焦土作戦によって疲弊させたスウェーデン軍を破った。 オスマン帝国がスウェーデン側に参戦したことで苦境に立たされたものの、 後に形勢を逆転させて最終的に勝利し、バルト海の制海権を確立した。 戦争中にバルト海沿岸のイングリアを占領するとそこに港湾都市を建設、 湿地帯の軟弱地盤に悩まされながらも都市を完成させると 自らの名前から「サンクトペテルブルク」と名付け、モスクワから遷都した。 ただ内政・外交で多大な事績を挙げたが、 家庭にはあまり恵まれなかった。 敬虔だった后エヴドキヤとの仲は悪く、同様に保守的になった皇太子アレクセイとも不仲で、 反体制派となった息子の側近を粛清した挙句アレクセイも獄死させた。 配下の召使いだったエカチェリーナを愛人、後に皇后としたが、 無事に成人した子供は娘が二人だけだった。 最期はネヴァ川で発生した船の事故で自ら救難活動を行い、 冷たい水に浸かったことで体調を崩してそのまま死去した。
ピョートルはロシアを近代化させて大北方戦争の勝利でバルト海の制海権を獲得し、 その成果から大帝と呼ばれている。 反面保守派からはその性急な革新性を嫌われ、 ロシア正教会では今でも評価が低いままである。 子供の頃から自ら率先して行動するタイプで、 2メートルを超える巨漢であることもあって 銀の皿を素手でパイプにできるほどの怪力も持っていた。 西欧歴訪中に船大工から花火師まで14の手仕事を習得していたと言われる。 ただ部下の抜歯を趣味にしていたと言われ、麻酔なしで実施するため恐れられていた。 他にも宿敵カール12世の死を悼んで黙祷し、最期の船の事故の際にも率先して救助したなど、 義侠心溢れる親分肌だったようである。 革新性といい子供の頃から自ら突っ走る所といい日本の信長に似ている気がする。

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