[ヨーロッパ−近世]
ポーランド−リトアニア共和国の領土が3回に亘って分割され滅亡した事件。
ポーランド−リトアニア共和国は広大な領土を持つ大国であったが、
バルト海の覇権を賭けたスウェーデンとの戦い、
東の隣国ロシアとの戦いを経て国力が衰え、
大国となったロシアのを受けるようになった。
スタニスワフ2世が即位すると、
改革による復興の兆しが見えたことにロシアが警戒するようになった。
さらにプロイセン、オーストリアがロシアの影響力増大を警戒したことで、
ロシアのポーランド総取りとならぬよう隣接3国による第1次ポーランド分割が行われ、
領土の3割が削られた。
スタニスワフ王は改革を進めて立憲君主制へと移行させたが、
これに反対する貴族がタルゴヴィツァ連盟を結成しロシアと結んで抵抗した。
これにより内乱からロシアとの戦争に発展し、
スタニスワフ王が連盟と妥協して降伏したことで、
第2次ポーランド分割が行われプロイセンとロシアに領土がさらに削られた。
プロイセンはフランス革命戦争に反革命側として参戦する代償として参加したが、
オーストリアは王妃マリー=アントワネットの出身国で矢面に立ってしまい、
介入する余裕が無かったためか第2次分割には参加していない。
この間コシチュシュコらの義勇軍が事実上の侵略に対して抵抗したが、
ロシア軍に敗れ鎮圧されてしまった。
この蜂起失敗によって隣国の浸食はさらに進み、
再びオーストリアも加わった第3次ポーランド分割によってポーランドの領土を消滅し、
ポーランドは滅亡した。
その後ナポレオン時代にワルシャワ大公国が一時的に生まれたがナポレオンの没落によって消滅し、
本格的なポーランド再生は第1次大戦後、滅亡から120年以上後のことである。