王莽(おうもう)

[中国−漢・新]

新の皇帝。字は巨君。 前漢から禅譲(実際は簒奪)によって帝位に就き新王朝を建てたが、 徒に混乱を招き内乱によって滅んだため後世暗君・暴君の代表と見做された。 皇后王政君の一族として生まれたが、 父王曼、兄王永が早世したため出世できず貧しかった。 王莽は熱心に儒教を学び、 伯父の大将軍王鳳を熱心に看病したことを切っ掛けに取り立てられるようになった。 高官となっても罪を犯した息子たちを投獄して自害に追い込むなど 清廉な人物のポーズを貫いて人気を集め、 娘を幼君の平帝の皇后にして外戚として実権を握った。 平帝が若死に(王莽による毒殺とも言われる)すると幼児の儒子嬰を皇太子とし、 自らは摂政となって皇帝の業務を代行した。 そして様々な瑞祥をでっち上げて天命を名目に王政君から伝国璽を奪い取り、 自ら皇帝となって新を建国した。 皇帝となった王莽は周の治世を理想とし、 儒教経典の周礼を元に改革を行ったが、 実情を無視した地名や役職名の改名・大量の新貨幣の鋳造や 専売制強化などの政策は悉く失敗し、 社会は大混乱に陥った。 そして農民主体の赤眉の乱を切っ掛けに各地で反乱が勃発し、 群雄割拠するようになってしまった。 王莽は聖人君子のメッキが剥がれ迷信に縋るようになっていったが、 最期は更始帝劉玄の軍勢が長安に攻め入り、 混乱の中王莽は殺され功名を狙う者たちによって遺体は八つ裂きにされた。
王莽は儒教の聖人を装うことで人望を集め謀略によって至尊の位に就いたが、 現実離れした政策で世に混乱を招き、 聖人のメッキが剥がれ迷信に取りつかれた愚者として最期を迎えた。 後世けちょんけちょんに貶されたのも仕方のないことであろう。

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