オスマン帝国(オスマンていこく)

[オスマン帝国]

バルカン半島・中近東一帯を支配した大帝国。 600年以上続き、最大版図はアゼンバイジャンからモロッコに及んだ。 群雄割拠のアナトリアでオスマン1世が建国した。 この国の母体は戦士集団であったが、 トルコ系遊牧民であったという説と 様々な出身のガーズィー (ジハードに従事する戦士) 集団であるという説がある。 何れにしろオスマン自身はトルコ系遊牧民出身で、 そのためヨーロッパではオスマン=トルコと呼ばれた。 しかし、彼ら自身は「オスマン家の国家」と称しており、 実際支配者階級・被支配者階級共にトルコ人以外が多かった。 また、君主である歴代のスルタンからして、特に後期には母方は奴隷出身が多く、 血統としてはギリシア系が多かった。 よって現在では正式名称としてはトルコは入れず、 オスマン帝国・オスマン朝と呼ばれる。 建国後は周辺の似たような君公国やビザンツ帝国を征服して領土を拡大し、 アナトリア・バルカン半島一帯の覇権を握った。 しかし第4代のスルタン「稲妻」バヤジットがティムールと戦って敗北し、 帝国は内紛状態となった。 その後バヤジットの子メフメト1世が再び統一し、 メフメト2世はビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服、 ここに遷都した。 以後この街はイスタンブールと呼ばれるようになり、 オスマン帝国の首都として繁栄した。 「征服者」メフメト2世や「冷酷者」セリム1世は領土をさらに拡大し、 16世紀前半には、旧ユーゴスラビア・ クリミア半島からエジプトまでを支配するようになった。 セリム1世の子「壮麗者」スレイマン1世の時代に最盛期を迎え、 ハンガリー・リビアまで征服し、バルバリア海賊を帰順させて東地中海を支配した。 しかし、スレイマンの子セリム2世以降、 スルタンは前線で戦わなくなった。 また、政務も自ら執るスルタンも少なくなった。 レパントの海戦で敗北はしたものの、領土の拡大は続いた。 だが内部では権力闘争が続き、 スルタンの代理とも言うべき大宰相は頻繁に替わり、政治は混乱した。 そして、オーストリアのウィーン攻撃の失敗で領土を失い、 東欧の覇権をオーストリアに奪われた。 18世紀になると技術面での衰退が目立ち、 西欧の技術を積極的に取り入れるようになった。 しかし、それでも産業革命の始まった西欧には引き離され、 軍事改革はかつての征服の立役者であったイェニチェリの反対で頓挫した。 そこへロシアの南方進出による領土喪失、 ギリシア・エジプトの独立が追い討ちをかけ、 この時期の政治改革も失敗し、 最早オスマン帝国は「瀕死の病人」と呼ばれる状況にまで落ちぶれてしまった。 20世紀初頭には立憲政治を目指す青年トルコ人運動が革命を起こし、 エンヴィル=パシャ率いる統一派政権が誕生した。 この頃帝国はアフリカの全てとバルカン半島の大部分を失っていたが、 そのバルカン半島でのロシア主導の汎スラブ主義を警戒し、 それに対抗してドイツに接近した。 第1次世界大戦では同盟国側で参戦したが、 アラブ人に反乱を起こされ、戦いは劣勢で結局連合国側に降伏した。 これにより統一派政権は瓦解、スルタンは専制復活を目論んだが、 ケマル=パシャ (後のアタチュルク) 率いるトルコ大国民会議が連合国軍を撃退し、 連合国側と講和した。 政権を握ったケマルはスルタン制を廃止し、 帝国は滅亡してトルコ共和国が誕生した。
オスマン帝国は、ヨーロッパでの「トルコ」の名称に反した多民族国家であり、 スルタンを頂点とする官僚機構が整った中央集権国家であった。 しかし、領土が拡大すると中央集権の維持が難しくなり、 属国の他エジプト等も地方の有力者に行政が任されていた。 エジプトはマムルーク朝を征服して帝国領となったが、 行政は帝国に忠誠を誓ったマムルークに任されていた。 帝国前期の征服事業は、スルタン自身の軍事手腕に加え、 キリスト教徒の子弟を強制改宗させた親衛隊「イェニチェリ」の組織力や 卓越した火力に負う所が大きかった。 また、当時のヨーロッパ諸国と比べ動員兵力が遥かに多かった。 当時世界で10万以上の兵力を動員できたのは、 オスマン帝国の他には明と日本くらいであろう。 このように当時としては先進的な制度を持ち コスモポリタンな国家で信教の自由もある程度あった。 しかし後期にはこれらの制度を担った者たちが近代化の障害となった。 軍事改革を潰したイェニチェリなどその典型であろう。 またコスモポリタンといえども中核となったのはイスラム教であった。 イスラム教の旧守派も、帝国滅亡まで改革を妨げ続けた。 彼らの影響を脱することができたのはトルコ共和国の成立以降である。 オスマン帝国の影響は、統治の歴史の長いトルコとバルカン半島に特に残っている。 バルカン半島のアルバニアなどにイスラム教徒が多いのは オスマン帝国の征服の影響である。 また、それ以外の特に西欧に与えた文化的影響が大きい。 特に打楽器はオスマン経由でヨーロッパにもたらされた。 度々ヨーロッパ、特にオーストリアを脅かしたオスマン帝国の軍隊は、 合図に打楽器を用いていた。 そのインパクトは強烈だったようで、 ウィーンを中心とした音楽家達の間に打楽器は広まった。 オスマン帝国は領土の広さもさることながら600年以上続いた歴史の長さ故、 さの影響も大きいのである。

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