ナポレオン=ボナパルト

[ヨーロッパ−近代]

フランス革命期に現れた征服者でフランス第一帝政の皇帝。 子孫と区別してナポレオン1世とも呼ばれる。 コルシカの貧乏貴族から成りあがって皇帝にまでなるが、 失脚して流刑先で死去するというこの上なく波乱万丈の生涯を送った。 当時フランス領になりたてで独立戦争の最中であったコルシカ島で 先祖が傭兵であった下級貴族の子として生まれた。 出生時の名前はコルシカ語(イタリア語系統)でナブリオーネ=ブオナパルテ。 父カルロ=マリアは独立戦争の幹部であったが、 ナポレオンの生まれる前にフランスに寝返っていた。 その縁でナポレオンはフランス本国に渡り、 修道院付属学校を経て陸軍幼年学校・士官学校に入り、 砲兵士官となった。 この頃は読書三昧で暮らし、数学の成績が抜群であったという。 フランス革命勃発時には無関心であったが、 後に家族がコルシカ島から追放された頃から出世志向が強まり、 ロベスピエールの弟オーギュスタンに取り入り、 王党派の反乱鎮圧で功績を挙げた。 ところがジャコバン派が失脚すると連座して降格となり、 さらに転属拒否などの問題を起こし予備役に回された。 しかしパリで王党派によるヴァンデミエールの反乱が起こると バラスによって再び副官として登用され、 大砲を暴徒にぶっ放すという過激な方法で鎮圧して司令官に返り咲いた。 さらにイタリア方面軍司令官に抜擢されると オーストリア軍相手に連戦連勝し、 カンポ=フォルミオ条約によって第一回対仏大同盟を崩壊させた上で 北イタリアの領土を獲得、 一躍英雄として国民に歓迎された。 一方フランスへの敵視を続けていたイギリスに対し 植民地インドとの連絡を妨害するためエジプトへ遠征し、 現地のマムルーク軍を破ってカイロに入城した。 しかし海軍がネルソン率いるイギリス艦隊に敗れると孤立し、 第二回対仏大同盟によってフランスが再び危機を迎えると 将兵を置き去りにしてフランスへ脱出した。 実質敵前逃亡したナポレオンであったが、 シエイエスの計画したブリュメールのクーデターに加わり、 軍事力を背景に実権を握り、 新たに発足した統領政府の第一統領となった。 ナポレオンはオーストリアに奪還されていた北イタリアへ アルプス山脈を越えて進軍し、 信頼するドゼー司令官が戦死するなど苦戦はするものの勝利し、 ライン川西岸と北イタリアを勢力圏に収めた。 これらの戦勝と内政の改革による人気、 イギリスを中心とする諸外国の敵視という環境を背景として 権力の集中をすすめ、 終身統領、次いで皇帝に即位した。 皇帝となったナポレオンは対外戦争を推し進め、 イギリスには海戦で敗れたものの、 オーストリア・ロシア・プロイセン相手の陸戦では勝利し、 正に「ヨーロッパの覇者」となった。 しかしそれ以降栄光に陰りが生じ、 内紛に介入したスペインではゲリラに悩まされ、 イギリス封じのため大陸封鎖令を発するも却って大陸国家の反発を招き、 遠征したロシアで焦土戦術によって敗退した。 この敗北によって諸外国が一斉に蜂起し、 敗戦に部下の裏切りも加わって退位させられ、 地中海のエルバ島に流罪となった。 ここで終わるかと思いきや、 戦後処理を話し合うウィーン会議は遅々として進まず、 またフランス王となったルイ18世の不人気を見て、 ナポレオンはエルバ島脱出を決行、 パリに舞い戻って復位した。 国力の低下を見て諸外国に講和を提案したが、 ナポレオンを危険視する諸国はこれを拒否、 やむなく戦うもワーテルローで敗れ、 再度退位に追い込まれた。 身柄を押さえたイギリスは再び脱出されないよう、 大西洋の孤島であるセントヘレナ島への流罪とした。 セントヘレナ島では劣悪な環境での監禁生活や 総督ハドソン=ローの無礼な対応に苦しめられ体調を崩したが、 死去するまでに膨大な回顧録を残し自身の名声に貢献した。
ナポレオンは故郷からの追放、成り上がっての権力獲得、 欧州征服、没落してからの流刑地での死と 一代で山あり谷ありの劇的過ぎる生涯を送った。 そのためナポレオンは偉大な英雄とも酷薄な独裁者とも見做され、 毀誉褒貶の激しい人物である。 古代・中世の征服者は肯定的評価の方が多く、 近代の独裁者は否定的評価が多いが、 栄光と没落を一人で経験したナポレオンはどちらの評価も多い。 ナポレオンの「本職」である軍人としては概ね肯定的に見られており、 歴史上最も優れた司令官の一人と見做されている。 政治家としてもナポレオン法典の編纂など、内政面は評価されている。 一方、革命によって身を立てながら皇帝という専制君主となったことは 批判が多い。 ただしこれは諸外国に敵視されており、 革命がジャコバン派の暴走の末破綻した環境下ではやむを得ない選択だっただろう。 ただし有能とは言い難い身内を重用し王にしたことは失政と見られている。 おそらくナポレオンは「民主主義」をよく理解していなかったのではなかろうか。 また度重なる戦勝にも関わらず、諸外国の敵意を取り除くことは出来ず、 自身の没落の直接の原因となった。 総じて軍人としては一流だが 政治家としては一流になり切れなかったと言ったところであろうか。

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