毛利元就(もうりもとなり)

[日本−戦国時代]

小さな国人領主から中国地方の覇者となった戦国大名。 戦国一の謀略の人と呼ばれる。 父・兄・兄の子を次々と失い、弟との争いに勝って毛利家当主となる。 父と兄が酒の害で死んだため生涯酒を飲まなかったという。 当時中国地方の2大勢力であった大内氏と尼子氏の間で、 専ら大内方につきながら謀略で勢力を伸ばす。 尼子の大軍に攻められた時、領民を城に入れ一丸となって守り、 大内の援軍が来るまで持ちこたえるなど、 謀略以外の戦闘指揮や人徳にも優れていた。 自分の次男元春を吉川家、 三男隆景を小早川家に養子として送り込んで家を乗っ取った。 この二人の子は「勇の吉川、智の小早川」と呼ばれた優れた人物で、 二人を毛利本家の補佐役とする両川体制と呼ばれる体制をつくった。 また、獅子身中の虫とも言うべき家臣の井上氏を粛正し、 強固な支配体制を確立した。 大内義隆が陶隆房の謀反で死去すると、名を変えた陶晴賢と対立、 厳島の戦いでこれを破り、中国地方の覇者となる。 さらに出雲の尼子氏も滅ぼし、全国でも最大の大名となる。 生前嫡男隆元を失ったため、孫輝元を後継者として、 75歳で死去した。
謀略によって敵を弱体化させたり乗っ取ったりして勢力を広げた元就であるが、 戦闘の采配や内政にも優れていた。 また、卑怯な手を使っていることをよく自覚し、 領民や家臣には常に気を遣っていた。 覇者となったのが高齢になってからであるためか、 天下取りに消極的で、息子や孫にも、天下を狙わないよう戒めている。 彼ら身内の後継者達に示した教訓は、 実際毛利家が守られたこともあって「三本の矢の教え」として有名である。 性格的には慎重なことや身内を重視することなど、 家康に近いが、権力に目を暗まされなかった所が私は好きである。

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