ミカエル8世パレオロゴス

[ビザンティン帝国]

ビザンティン帝国の皇帝で最後の王朝であるパレオロゴス朝の創始者。 「最も狡猾なギリシア人」と呼ばれた謀将である。 名門パレオロゴス家の出身で帝位にも近かったが、 皇帝に警戒されて敵であるルーム=セルジューク朝に亡命した。 ところが、モンゴル相手の戦いで活躍し、 その才により帰国を許されたというツワモノである。 皇帝テオドロス2世が死去すると追悼ミサの最中に摂政ムザロンを暗殺し、 自ら幼帝ヨハンネス4世の摂政、次いで共治帝となった。 ラテン帝国が遠征中の隙を突いて首都コンスタンティノープルを奪回、 その功績をたてに幼帝ヨハンネスの目を潰して追放、 自ら唯一の皇帝となった。 即位後、最大の脅威はコンスタンティノープル奪回を図る西欧諸国であった。 そこで、モンゴル (イル=ハン国) やジェノヴァと同盟し、 さらにヴェネツィアとも和解した。 両シチリア王シャルル=ダンジューが野心を持っていると知ると、 ローマ教皇に東西教会の合同を持ちかけ、時間を稼いだ。 その間にシチリアで反乱を示唆し、いよいよ遠征目前という時期に 「シチリアの晩鐘」と呼ばれる反乱が起こった。 この反乱でシャルルはシチリアを失い、 コンスタンティノープル遠征は頓挫した。 この後代わってシチリア王となったペドロ3世を援助し、 さらに対外関係を安定させたが、間もなく死去した。
ミカエルは帝位簒奪や (ある意味勝手な) 東西教会合同により同時代人の評判は極めて悪く、 葬儀もしてもらえなかった。 即位後の内政面では古い習慣を復活させたが、 その欠点を改めず、貨幣の質を落としたこともあり経済は悪化した (十字軍の略奪の余波もあったろうが)。 しかし、彼のような皇帝でなければ帝国はシチリア王に 再び征服されていただろうと歴史家も認めている。 明らかに悪人の部類に入る人物であろうが、 彼なりに国のために最善を尽くしたのではないだろうか。
正室テオドラとの間に7人の子を設けたが、 他に愛人との間に2人の娘をもうけ、 それぞれノガイ・アバカとモンゴルのハンに嫁がせた。 特にイル=ハン国のアバカに嫁いだマリアは 「モンゴルのマリア」または「デスピナ」として知られている。

見出しのページに戻る
歴史小事典+歴史世界地図に戻る