[ヨーロッパ−近代]
オーストリアの政治家。
フルネームはクレメンス=ヴェンツェル=ロタール=ネーポムク=フォン=
メッテルニヒ-ヴィネブルク=ツー=バイルシュタイン。
ウィーン会議の議長を務め、ナポレオン没落後のウィーン体制を支えた。
トリーア選帝侯領のコブレンツで伯爵の子として生まれ、
フランスのストラスブール大学で学んだ。
フランス革命が勃発するとフランスを離れ、
マインツの大学に通いながら
ネーデルラント総督府公使となった父の手伝いを行い、
革命戦争が本格化する頃には総督府の伝令役としての仕事を行った。
その後フランス侵攻からウィーンへ逃れ、
カウニッツ公爵の孫娘と結婚し侯爵となり高級官職への道を歩みだした。
革命戦争の講和会議であるラシュタット会議に全権大使として参加し、
皇帝の思惑通り時間稼ぎの末破談させた。
ナポレオン戦争中は各国の大使を歴任した後外相となり、
ナポレオンと皇女マリー=ルイーズの結婚の仲介役となった。
しかしロシア遠征に失敗すると反ナポレオンに傾き、
退位後のウィーン会議では議長を務め国際秩序の形成に努めた。
ナポレオンの百日天下を経てウィーン体制が確立し、
メッテルニヒはその中心として勢力均衡と自由主義・国民主義の抑圧に励み、
宰相に就任して国政を牛耳った。
しかしスペイン立憲革命やギリシア独立では諸国の利害が対立し、
また民衆の自由主義・国民主義への欲求は抑えきれず、
フランス二月革命の余波で発生した三月革命によりメッテルニヒは失脚、
イギリスへの亡命を余儀なくされた。
その後オーストリアでは反動主義が復活しメッテルニヒは帰国したが、
その後は表舞台に出ることなくウィーンで死去した。
メッテルニヒは外国出身ながら公爵の縁者となって出世し、
外交官・政治家としてオーストリア帝国の維持に全力を尽くした。
メッテルニヒ自身は反動主義が時代遅れであると自覚していた節があるが、
結局帝国の維持のため革命で失脚するまで自由の抑圧を続けた。
メッテルニヒの尽力によりオーストリアは自由主義が育たず
帝国は維持されたが、
反面技術面の遅れなどにより国家としては衰退させてしまったかもしれない。