[ヨーロッパ−近代]
イタリアの革命家で、
第一次イタリア独立戦争時のローマ共和国指導者の一人。
ジェノヴァで医学部教授の子として生まれ、
長じて弁護士となった。
若くして秘密結社のカルボナリに入党し独立運動に加わるが、
武装蜂起が鎮圧されるとカルボナリに限界を感じて
新たな組織「青年イタリア」を結成した。
この組織は「神と人民」をモットーとして掲げ、
共和政によるイタリア統一を目的としていた。
亡命先のスイスで同様の理念を持つ他国の組織と連携し、
「青年ヨーロッパ」を結成したが、
スイス政府によって退去させられ実を結ばなかった。
その後亡命先をロンドンへ移し活動を続けていたが、
1848年革命が勃発するとミラノの蜂起軍に加わったがオーストリア軍に鎮圧され、
一旦スイスに逃亡した。
その後ローマで教皇を逃亡に追い込みローマ共和国が成立すると、
マッツィーニは共和国に迎えられ三人の執政の一人となった。
しかし共和国はルイ=ナポレオン率いるフランスの軍事介入を受け、
戦いに敗れて共和国は解体、マッツィーニも再度亡命に追い込まれた。
亡命後も活動を続けたが、
国民の期待は理想主義のマッツィーニよりも
現実主義のカヴールとサルデーニャ王国に寄せられるようになっていった。
カブールの主導によって「イタリア王国」が成立したが、
共和政に拘るマッツィーニはこれと対立し、
議員に選出された時も王政反対を貫いて拒否した。
亡命中にカール=マルクスの第一インターナショナルに参加したが、
意見を対立させ脱退。
またパリ=コミューンとも対立するなど独自の道を歩み続けた。
最期はイタリアへ戻りピサで死去した。
マッツィーニはカブール・ガリバルディと共にイタリア統一の三傑と称されるが、
同僚で基本的に仲間であった明治維新三傑やドイツ統一三傑と異なり、
あくまで共和政に拘ったためサルデーニャ王国宰相であるカヴールとは
終始対立していた。
そのためイタリア統一の先駆けとされながらも、
サルデーニャ主導のイタリア統一には直接関与することは無かった。