[ビザンティン帝国]
ビザンティン帝国パレオロゴス朝の皇帝。
当時のビザンティン帝国は既に滅亡秒読み段階であり、
マヌエルも借金滞納のためヴェネツィアに拘束された
父ヨハネス5世の釈放に奔走したり、
自身も対立した兄やオスマン帝国によって捕らえられたりと、
苦労を重ねている。
父が死去し単独皇帝となった後も、
オスマンにより首都コンスタンティノープルが包囲され、
援軍のハンガリー王ジギスムントを中心とした十字軍はニコポリスで大敗し、
自ら西欧諸国を歴訪し援助を求めるものの成果は得られず、
と散々であった。
最早首都陥落は時間の問題かと思われたが、
オスマンのスルタンであるバヤジット1世がアンカラでティムールに破れ、
後継者争いの内乱へと発展したため滅亡は回避された。
マヌエルはバヤジットの息子のメフメト1世を支援し、
後継者争いに勝利した彼と和睦することで平和を手にした。
だがこの時点のビザンティン帝国では自力で国力の回復は望むべくも無く、
メフメトの死後ムラト2世が後を継ぐと再びコンスタンティノープルは包囲された。
マヌエルは已む無くオスマン帝国への臣従を条件として和平を結び、
滅亡という最悪の結果だけは何とか回避した。
その後マヌエルは息子ヨハネス8世に実権を譲って引退し、
修道士として人生を終えた。
マヌエルはビザンティン帝国滅亡寸前のとんでもない時代の皇帝となり、
その治世は忍従の連続であった。
無論立派な業績なぞ望むべくも無いが、
唯一パレオロゴス朝ルネサンスの担い手の一人として数々の著作を残した。
またトルコ人すら尊敬したという優れた人物であり、
悪条件とは言えオスマンとの和睦を成し遂げたのも彼の手腕の賜物であったという。
環境には恵まれなかったが、
帝国末期の名君と言われるのも故あることである。
彼もまた悲劇の英雄の一人と言えるだろう。