マムルーク朝(マムルークちょう)

[中東−中世]

エジプト・シリアを支配したイスラム教スンニ派の王朝。 マムルークとは黒人ではない奴隷出身兵士のことであるが、 代々のスルタンがマムルーク出身あるいはその子孫であることから こう呼ばれる。 この辺りの事情はインドの奴隷王朝と同じである。 このマムルーク朝は大きく前期のトルコ系を中心としたバフリー=マムルーク朝と 後期のアルメニア系を中心としたブルジー=マムルーク朝に分けられる。 アイユーブ朝のスルタンであるサーリフの急死と フランスの聖王ルイの十字軍による混乱の中で生まれた王朝だが、 当初はスルタンの暗殺が相次ぎ不安定であった。 新たな脅威であるモンゴル軍をアイン=ジャールートの戦いで (別働隊相手ではあるが) 破った後、 スルタンのクトゥズを暗殺してバイバルスがスルタンとなった。 このバイバルスが事実上の初代として政権の基盤を固めた。 バイバルスの死後、幼い二人の子供を経てカラーウーンが即位し、 以後約100年カラーウーンの子孫がスルタンとなった。 この時期をナイル川中洲の本拠地のあだ名から バフリー (海の) =マムルーク朝と呼ぶ。 その後トルコ系遊牧民にイスラム教が浸透し、奴隷にしにくくなり、 マムルークの出身は主にアルメニア系に変わっていった。 やがてバルクークがスルタンとなり、カラーウーン家の支配が終わった。 これ以降のアルメニア系主体の政権をまたその本拠地から ブルジー (城塞の) =マムルーク朝と呼ぶ。 このブルジー=マムルーク朝のスルタンは前スルタンの部下の中から 完全に実力で選ばれ、それ故内乱が絶えず政権は不安定であった。 最後にオスマン朝によってマムルーク朝は滅ぼされたのだが、 それ以後もマムルーク達は在地の有力者として実質的にエジプトを支配し、 その状態は19世紀まで続いた。

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