[ヨーロッパ−近代]
ナポレオン=ボナパルトの弟。
フランスの政治家となり、後にカニーノ公となった。
若い頃兵学校・神学校に入学したが、いずれも中退して故郷のコルシカ島に戻った。
革命が勃発するとジャコバン派に加わり、
島の指導者で反革命であったパオリと対立し、
ボナパルト一家が追放される原因となった。
移住先の町で倉庫係兼人民協会議長となり、
ジャコバン派失脚に伴い逮捕されたが、ナポレオンらの尽力により釈放された。
総裁政府においては下院に当たる五百人会の議長を務めた。
ブリュメールのクーデターでは積極的に謀議に加わり、
さらに実行時には議員の反対で議場から退出させられたが、
リュシアンの演説によって兵士を議場に突入させ、
クーデターの成功を導いた。
クーデター成功後はその功績もあって内大臣を務めたが、
この頃から兄弟の仲が悪化し、辞任させられた。
その後駐マドリード大使や議員を歴任したが兄弟仲は改善せず、
リュシアンが浮名を流して有名であったアレクサンドリーヌと結婚したことで
決裂は決定的となった。
その後皇位継承者から外されたリュシアンはイタリア・イギリスと住居を転々とし、
アメリカへ向かう途中イギリスに捕らえられ捕虜となった。
ナポレオンが退位した頃にはローマにいたが王政復古後は帰国し、
さらにナポレオンのエルバ島脱出後には兄に協力した。
兄がワーテルローで敗れ流罪となるとイタリアに移住し、
ローマ郊外のヴィテルボで没した。
リュシアンはブリュメールのクーデターで兄ナポレオンが権力を握った際の
最大の功労者であり、
ナポレオンの兄弟の中でも有能な政治家であった。
しかし兄と異なり心底共和主義者であったためか兄と対立し、
ナポレオンは有能な弟を手放すとこになった。
リュシアンも若い頃から奔放な面があったが、
ナポレオンもコルシカ的な権威主義的思想から脱却できず、
双方問題があったと言えよう。
その思想故ナポレオンや他の兄弟や妹婿を各地の王にしたが、
必ずしも統治に成功したとは言い難く、
ナポレオンの政治家としての限界を示してしまった。