ルイ=ナポレオン

[ヨーロッパ−近代]

フランス第二共和政の大統領であり第二帝政の皇帝。 ナポレオン=ボナパルトの甥で 本名はシャルル=ルイ-ナポレオン=ボナパルト、 皇帝即位後はナポレオン三世と呼ばれた。 ナポレオンの弟であるホラント王ルイ=ボナパルトの三男として生まれ、 ナポレオン失脚後は家族と共に亡命生活を送りスイスやバイエルンで育った。 兄やナポレオンの子であるナポレオン二世の死後はボナパルト家の中心となったが、 イタリアの革命に参加したりストラスブール一揆・ブローニュ一揆を起したりしたものの、 悉く失敗し逃亡・投獄を余儀なくされた。 二月革命勃発時にはロンドンに亡命しており、 第二共和政の混乱に乗じて人気を集め、 議員として帰国を果たした上で圧倒的得票率で大統領となった。 しかしこの時点では権力基盤は弱く、 与党であるはずの保守派の秩序党も信用しきれない状態であった。 ルイ=ナポレオンは秩序党が暴走して反動政治を行い人気を失ったのに乗じてクーデターを起こし、 さらに選挙で国民の支持を得たことで独裁権力を握った。 こうして足場を固めたルイ=ナポレオンは伯父同様国民投票で皇帝に推され、 ナポレオン三世として即位した。 皇帝ナポレオン三世は自由貿易を推進し、積極的に国内に投資して産業を育成、 フランスの近代化を推し進めた。 外交ではイギリスと共にクリミア戦争でロシアと戦って勝利し、 フランスの国際的地位を高めた。 しかしサルデーニャと密約を結んでイタリア統一戦争に出兵したものの、 独断でオーストリアと休戦して足を引っ張り、 国内外の批判を集めることになった。 さらに植民地拡大政策の一環としてラテンアメリカでの勢力拡大を目論んでメキシコに出兵したが、 撤退に追い込まれた上に自ら送り込んだ皇帝マクシミリアンを見捨てる形となり、 内外の信用を低下させた。 そして小ドイツ主義でのドイツ統一を目指すプロイセンと対立し、 スペイン王位継承問題からプロイセンに宣戦布告し自ら軍を率いるが連戦連敗し、 捕虜となった上退位に追い込まれた。 退位後はイギリスに亡命し復権を目論んだが、 健康状態が悪化しそのまま死去した。 死後皇太子であったウジェーヌにボナパルト派の期待が集められたが、 士官として参戦したズールー戦争で戦死し、ナポレオン三世の血統は断絶した。
ルイ=ナポレオンは亡命期には失敗続きであったが、 二月革命後に帰国してからは老獪な手管によって権力を握り、 皇帝即位後も内政でも手腕を発揮してフランスの近代化を推し進めた。 一方外交・軍事では当初のクリミア戦争では勝利したものの、 その後はイタリアやメキシコなどで失策が目立ち、 最後はプロイセンに敗北して退位に追い込まれ失意のまま死去した。 政治家としては戦争ばかりであった伯父以上であったかもしれないが、 伯父同様外交では上手くいかず、 伯父と違い軍事面の才能はそれほどでも無かったため良い所なく敗れて退場した。 己を知り無理に拡大主義に走らず内政に専念できていれば名君として名を残せたのかもしれない。

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