ルイ14世

[ヨーロッパ−近世]

ブルボン朝のフランス王。 在位時にブルボン朝は最盛期を迎えたため「太陽王」と呼ばれる。 父13世が若死にしたため幼くして即位し、 当初はマザランが国政を主導した。 父の代から継続していた三十年戦争の勝利でアルザス・ロレーヌの一部を得たが、 莫大な戦費捻出のための重税で貴族と民衆の不満が高まっていた。 マザランが高等法院のメンバーを逮捕したことを切っ掛けにフロンドの乱が発生し、 マザランとコンデ公ルイの対立もあって乱は長引き、 若いルイ14世も度々パリから脱出するはめになった。 この経験が後のヴェルサイユ遷都に繋がったとも言われる。 フロンドの乱の鎮圧により貴族の勢力が大きく削がれ、 フランスの絶対王政確立へ大きく動くこととなった。 三十年戦争後も継続していたスペインとの戦争に勝利し、 ピレネー山脈を国境として画定させ、 ルイ14世はスペイン王女マリア=テレサと結婚した。 その後マザランの死去に伴い親政を開始し、 新興貴族やブルジョア層を起用して絶対王政路線をさらに推し進めた。 例えば財務総監にコルベール、陸軍大臣にルーヴォワ候を起用し、 国富=国家の所持金を重視する重商主義や 貴族を介しない国家の常備軍といった政策を実施した。 また郊外のヴェルサイユに20年掛かりで宮殿を築き遷都した。 このように国力増強に努めたが、蓄えられた力は対外戦争に費やされた。 対スペイン戦争の勝利で西欧の覇権を得たが、 それだけでは満足せず、次々と対外戦争を進めた。 フランドルの帰属戦争ではフランドル諸都市は得たものの、 是非とも欲しかったフランシュ=コンテが得られず不満であった。 続いてオランダを侵略したが、 オランダの堤防決壊による焦土戦術で文字通り泥沼化し、 代わりにフランシュ=コンテとフランドルの諸都市を獲得して溜飲を下げた。 獲得地は何れも旧スペイン領で、 結局落ち目の旧覇者を叩いて領土を広げたこととなった。 ただ覇権を強化していく過程でルイ自身カトリックの守護者を自任するようになり、 この結果国内のユグノーへの締め付けを強めて経済力の衰退を招いた。 またイギリスの名誉革命を切っ掛けにオランダへ再侵攻し、 それがイギリスやオーストリアを含む対仏大同盟結成を招いた。 戦争は泥沼化し、結局ウィリアム3世のイングランド王即位を承認して戦争は決着、 フランスが得たのはストラスブールとハイチのみであった。 しかし最大の戦乱はその後訪れた。 スペイン王カルロス2世の死後、 国土分割を嫌ったスペインはルイの孫フィリップを継承者としたが、 これにイングランドやオーストリアが反発し、スペイン継承戦争が勃発した。 戦争はまたも泥沼化したが、 オーストリアのスペイン王候補であったカール大公が神聖ローマ皇帝となると、 オーストリアの強大化を懸念した諸国が和平へと傾いていった。 その結果フランスの王子はスペイン王として承認されたが、 スペイン領であったネーデルランド・イタリアはオーストリアへ渡り、 イギリスもジブラルタルと北米植民地を獲得した。 この相次ぐ戦争により国家財政は破綻しかかり、 後のフランス革命の遠因となった。 またルイ14世は身内にも恵まれず、 息子には全て先立たれてしまった。 老王が死去したとき跡を継いだのは幼い曾孫で、彼がルイ15世として即位した。
ルイ14世は「太陽王」と称され絶対王政の典型として教科書に載る偉大な王である。 官僚による国富と軍事力の集中に成功し、 フランスをヨーロッパ世界最強の座へ押し上げたが、 度重なる対外戦争とその泥沼化によって蓄えた国力の疲弊も招いた。 大抵「最盛期」というのはその後衰退するから頂点なのである。 よって「終わりの始まり」でもあるのだが、ルイ14世の治世はその典型であった。 ルイ自身は「官僚王」と呼ばれる精力的な王で、規則正しく政務に邁進していた。 また自ら兵を率いたこともあり、武芸にも優れていた。 功罪共に大きく毀誉褒貶の激しい人物であるが、 有能な人物であったのは確かだろう。 ただ、それ故に慢心があり、必ずしも治世で成功できなかった点はあった。 ロシアやプロイセンのようなヨーロッパの勃興期の大王・大帝より、 漢武帝や唐玄宗、ユダヤのソロモン王、ムガールのアウラングゼーブのような オリエントの大王・大帝に近い気がする。

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