レパントの海戦(レパントのかいせん)

[ヨーロッパ−近世・オスマン帝国]

キリスト教国の連合とオスマン帝国の間で起こった海戦。 オスマン帝国没落の最初のきっかけとなった戦いである。 ヨーロッパ連合はスペイン・ヴェネツィア・教皇・ その他イタリア諸国とマルタ騎士団が加わっており、 総指揮官はカール5世の庶子でスペイン王フェリペの弟である ドン=ファン=デ=アウストリアが勤めた。 オスマン帝国側の総指揮官は小姓上がりのアリ=パシャであるが、 マホメット=シャルーク (シロッコ) とウルグ=アリ (何れも海賊、特にウルグ=アリは改宗したイタリア人) が補佐していた。 この戦いはあっさり勝敗が決まったプレヴェザの海戦と比べて激戦となり、 敗れたオスマン側は8割以上の船を沈没・拿捕で失い、 損害は3万人以上、総司令官のアリ=パシャは戦死、 さらにシャルークも間もなく戦傷死した。 キリスト教側の損害も大きく、撃沈は12隻と少なかったものの損害は1万5千人、 ヴェネツィア艦隊を率いてシャルークと戦ったバルバリーゴが戦死した。 尚艦長クラス以上の戦死は全てヴェネツィア人だったという。 この後オスマン帝国は即座に衰退はしなかったが、 海軍再建後の行動範囲は東地中海に限られるようになった。 そしてヨーロッパから見て脅威の度合いは小さくなり、 関心は地中海から新大陸などの外洋に移っていった。 結果として勝者ヴェネツィアを始めとするイタリア諸国・ 敗者オスマン帝国何れも衰退していくこととなった。 また、それに関連してこの戦いはガレー船が主役である最後の大規模な海戦となった。 それ以降海戦の主役はガレオン船などの外洋型帆船へと移っていった。

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