レオポルド1世(神聖ローマ皇帝)

[ヨーロッパ−近世]

没落しかかったオーストリアを復興させたハプスブルク家の神聖ローマ皇帝。 皇帝フェルディナンド3世の次男として生まれ、 次男故に聖職者となるため高度な教育を施され、 学問と芸術を愛する文人に成長した。 しかし兄が早世したため、 父の死後皇帝となり三十年戦争の敗北で落ち目となった帝国を継承した。 その頃神聖ローマ帝国の実体を失っていたオーストリアは、 オスマン帝国の攻撃に晒されていた上、 フランス王ルイ14世の拡大政策にも悩まされていた。 対フランスはオランダなどの諸国と共同で対処していたが、 両面作戦のためオスマン帝国に対し後手に回り、 首都ウィーンが包囲されるまで追い詰められた。 レオポルドはウィーンを脱出したが、諸侯に呼びかけて援軍をかき集め、 特にポーランド王ヤン=ソビエスキー率いる重装騎兵の活躍により撃退に成功した。 その後オスマンは司令官カラ=ムスタファ=パシャが処刑されたこともあって混乱し、 連戦連勝でハンガリーの大部分を征服、 ハンガリー議会でも多くの優越権を認めさせた。 途中フランスの大同盟戦争による中断はあったものの、 終戦後に兵力を再びハンガリーに回して大勝し、 カルロヴィッツ条約によってハンガリーのほぼ全土をオスマン帝国から奪い取った。 この勝利により、 三十年戦争の敗北を乗り越えオーストリアは再び大国へと返り咲く切っ掛けとなった。 さらにヤン=ソビエスキー死後のポーランド王に ザクセン選帝侯フリードリヒ=アウグストを即位させて影響を及ぼした。 晩年にはスペイン継承戦争で苦戦したが、 プリンツ=オイゲンを軍事委員会総裁に任命して危機を脱したところで病没した。 レオポルドの死後スペイン継承戦争はスペイン継承権を放棄する代わりに 領土を獲得して集結し、オーストリアは大国に成長することとなった。
レオポルドは文人肌であったがひたすら外敵と戦う生涯であった。 レオポルド自身は兵を率いることは無かったが、 モンテクッコリやプリンツ=オイゲンなどの名将を抜擢して軍事上の成果を上げた。 この点同じ文人肌ながら常に戦場で兵を率いた ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスと対照的で、 始皇帝や朝倉孝景に近いスタイルであった。 結果としてローマの苦戦ぶりを思えば「任せる」スタイルで成果を上げたと言えるだろう。 また戦い続きの中でも文化振興を忘れず、 後にウィーンが音楽の都として栄える基盤を築いた。

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