[ヨーロッパ−近世]
フランスの大貴族で、名将として知られる。
ブルボン王家の支流である大貴族コンデ公家の生まれで、
アンギャン公、モンモランシー公を兼ねる北フランスの大貴族であった。
若くして三十年戦争に従軍して戦い、
21歳で司令官に抜擢されてネーデルラントで劣勢な兵力を率いて勝利した。
テュレンヌと共に三十年戦争のフランス勝利に貢献したが、
大貴族であることも相まってフランス宮廷からは警戒され、
微妙な立場に追い込まれた。
フロンドの乱では最初は王に従っていたが、
弟が反乱側の軍総帥であったことからマザランに警戒されて逮捕された。
反乱側によって釈放されると自身が指導者となり、パリで権勢を振るった。
しかし反乱軍の内部対立からボルドーへ退去、
スペインの援助を得てかつての部下テュレンヌ率いるフランス軍と戦った。
結局戦いに敗れたコンデ公はスペイン領ネーデルラントに亡命し、
フロンドの乱は鎮圧された。
その後客将といてスペイン軍を率いてフランス軍と戦ったが、
劣勢なスペイン軍ではフランス軍に勝てずピレネー条約により敗北が確定した。
ただしコンデ公は反乱の罪を許されフランスに帰国、軍に復帰した。
その後はテュレンヌと共に司令官として活躍して勝利を重ねた。
テュレンヌ戦死後にオーストリア軍の進撃を阻止したのを最後に引退し、
晩年は文人達と交流しながら過ごした。
コンデ公はテュレンヌと共に当時のフランス軍を支えた名将である。
どちらも大貴族出身で若くして頭角を現したが、人となりは随分違っていたようである。
謹厳実直なテュレンヌに対し、コンデ公は才気煥発で多才ぶりを発揮していた。
ただしフロンドの乱の頃にはそれが災いしてマザランの警戒を招き、
反乱側に身を投じて一旦破滅に追い込まれることとなった。
それでも後に復帰できたのは自身の才覚もさることながら
ルイ14世がマザランより太っ腹だったからだろう。
コンデ公は主を選ぶ名将(あるいは悍馬)だったわけだが、
特に西洋では才能ある人はそれが普通で
テュレンヌのような堅物の方が少数派であるように思える。