[ヨーロッパ−近代]
フランス革命期の軍人・政治家・学者。
主に軍政面で活躍し、「勝利の組織者」と呼ばれた。
また子孫にも著名人が多く、区別して「大カルノー」とも呼ばれる。
フルネームはラザール=二コラ=マルグリット=カルノー。
ブルゴーニュ地方の弁護士の子として生まれ、
教育熱心な親によって神学校、次いで工兵士官学校で学んだ。
士官学校では数学者として著名なモンジュの教えよ受けている。
卒業後は士官として軍務の傍ら軍事や物理学の論文を著述し
名を知られるようになったが、
貴族でないため昇進できないでいた。
フランス革命勃発後に議員に選出され、
革命戦争では派遣議員として各地を転戦し、
軍政家としての手腕を発揮して勝利に貢献した。
ジャコバン派政権では軍事の専門家として公安委員となり、
徴兵制や軍需工場の整備、軍制改革などを主導した。
この時の功績から「勝利の組織者」の異名で呼ばれるようになった。
しかしサン=ジュストと戦略を巡って対立し、
反ロベスピエール派となったため、
テルミドールのクーデターでは処罰を免れた。
総裁政府が発足すると5人の総裁の一人となった。
しかし穏健派として王党派との和解を図っていたことが仇となり、
バラスらによって嫌疑をかけられ亡命を余儀なくされた。
ブリュメールのクーデターでバラスが失脚すると帰国し、
ナポレオンによって戦争大臣に任命され、後に護民院議員となった。
ナポレオンの帝政には反対したが、
権力闘争に疎かったことから危険視されることもなく伯爵の位を授かった。
護民院廃止後は引退し、数学研究や著述に没頭していたが、
ナポレオンのロシア遠征失敗により亡国の危機に瀕すると現役に復帰した。
アントウェルペン総督となってナポレオンの退位まで街を守り通した。
王政復古では立憲君主制を提案するものの受け入れられなかったため、
ナポレオンの百日天下で再びナポレオン陣営に参画、
内務大臣となった。
ここで戦備充実を主張したが短期決戦を図るナポレオンに受け入れられず、
ナポレオン敗戦後も抗戦を主張したがこれも受け入れられず、
再度の王政復古により国外追放となった。
晩年はドイツのマグデブルクに住み、そこで死去した。
ラザール=カルノーは「勝利の組織者」の異名に相応しい卓越した軍政家で、
フランス革命政府及びそれを引き継いだナポレオンの軍隊を作り上げた。
反面学究肌で政治闘争には疎く、
権力者としてはあまり業績を挙げられなかったが、
それによって功績を打ち消されるものではないだろう。
長男はカルノーサイクルで知られる物理学者、
次男はカルノー法で知られる政治家であり、
また次男の息子二人は大統領と化学者になっている。
学者としてだけでなく教育者としても資質を持っていたのかもしれない。