[ヨーロッパ−近世]
フランスの数学者・天文学者。
イタリアのトリノでフランス系の役人の子として生まれた。
法律の勉強のためトリノ大学に入るが、数学の魅力に取りつかれそちらの分野へ進んだ。
若くして変分法を発見して当時の第一人者であったオイラーに認められ、文通するようになった。
またお墨付きを得たことでトリノの砲兵学校の教職に就いた。
またダランベールにも認められ、オイラーの後任としてベルリンのアカデミーに加わった。
ここで謙虚な人柄がフリードリヒ大王に気に入られ、精力的に活動した。
この間に結婚したが、子が無いまま妻は早世した。
後援者であった大王の死後、イタリアとフランスから勧誘があったが、
フランスの方を選びパリ科学アカデミーに加わり、以後生涯フランスで過ごした。
フランスに渡った翌年にフランス革命が勃発しアカデミーは閉鎖されたが、
革命政府でも要職に取り立てられ度量衡制定などの仕事を行った。
またこの頃再婚したが、やはり子供はできなかった。
ナポレオンにも気に入られ、主に高等教育機関での教育に携わったが、
多忙故か研究からは遠ざかっていった。
革命の最中に処刑されたラヴォアジエやマリー=アントワネットと親しく、
生涯嘆き続けたとも言われる。
ナポレオンが没落し始めるころに死去し、遺体はパンテオンに運ばれ英雄として埋葬された。
ラグランジュはオイラーに次ぐ大数学者で、
特に解析力学では幾何学を排し純粋解析学の構築を行い、この分野の基礎を築いた。
ポテンシャルや変分法の考え方はラグランジュによって発見されたものである。
また謙虚で物静かな人柄は多くの人に愛され、
特にフリードリヒ大王やナポレオンといった権力者に気に入られ要職に就いた。
フランス革命でも外国出身で不利な状況にも関わらず革命政府でも重用され続けた。
まさに才徳兼備の大学者であったと言えよう。
ただ、本人は不幸に見舞われなかったが、最初の妻に先立たれたり、
友人であったラヴォアジエ達が処刑されたりと周りでは不幸があり、
必ずしも幸せとは感じていなかったようである。
そんな人柄だから多くの人に愛されたのであろうが。