[ヨーロッパ−近代]
ロマノフ朝ロシア帝国の軍人。
フルネームはミハイル=イラリオーノヴィチ=ゴレニーシチェフ=クトゥーゾフ。
ナポレオンに勝利した名将として知られる。
ロシアの首都サンクトペテルブルクでモンゴル系軍人貴族の子として生まれ、
砲兵学校を経て軍隊に入隊した。
入隊後は母校の数学教官などを務めつつポーランドやオスマン帝国との戦いに従軍し、
戦傷で右目を失明しながらも勇名を挙げ、
特に第二次露土戦争でイズマイル要塞を陥落させたときには
勇戦ぶりを上官のスヴォーロフに賞された。
その後一旦予備役となったが、ナポレオン戦争の激化により現役に復帰した。
しかし皇帝アレクサンドル1世とは折り合いが悪く、
アウステルリッツの戦いでは司令官になったものの進言は軽視され、
戦いは敗北に終わった。
この敗北で地方の知事に左遷させられたが、
第三次露土戦争では司令官として戦功を挙げ、ロシアの勝利を導いた。
ナポレオンのロシア遠征では露土戦争が終結したばかりということもあり
担当から外れていたが、
総司令官であったバルクライの焦土戦術に批判が集まり後任の総司令官に就任した。
勇名高きクトゥーゾフの総司令官就任によってロシア軍の士気は高まり、
ボロジノで決戦に及んだが、
この戦いは痛み分けのような形で終わりロシア軍は撤退した。
結局クトゥーゾフもバルクライの焦土戦術を踏襲し、
かつての首都モスクワをフランス軍に明け渡した上で火をかけ、
ナポレオンを退却へと追い込んだ。
この功績でスモレンスク公の称号を授かり、
逆侵攻する軍の指揮を執ったが、陣中で病没した。
クトゥーゾフはナポレオンを破った名将として有名であるが、
勝利した戦法が焦土戦術という消極的かつ味方に犠牲を強いる手法であったため、
現代に至るまで多くの批判も受けている。
尤も人口こそ多いものの庶民が貧しく兵の質が高いとは言えないロシアでは
広大な領土を利用した焦土戦術でも使わないと強敵には勝てず、
実際ピョートル大帝も第2次世界大戦のソ連も焦土戦術で勝利している。
一方能力面とは別にクトゥーゾフは肥満と女癖の悪さでも有名で、
皇帝などの同時代人に嫌われた一因となっていたが、
将としての有能さから兵や国民の人気は高かった。
この辺り上官のスヴォーロフ程の奇人ではないが少し似てしまったかもしれない。