[モンゴル帝国・中国−元]
モンゴル帝国の第5代ハーンであり、
中国の征服王朝元の初代皇帝でもある。
漢字の当て字で忽必烈汗とも書く。
チンギス=ハーンの末っ子トゥルイの次男である。
弟で三男のフラグとは仲が良かったが、
兄モンケや四男アリク=ブカとは折り合いが悪かった。
それは基本的な思想の違いによる。
兄モンケが大ハーンになるとフビライは中国の総司令官に任命され、
部下のウリャンハタイらを使って大理国を征服した。
その後華北の統治と南宋攻略のため漢人の顧問を多く傘下に入れ、
また本拠地となる都開平府を築いた。
しかし、そのことがモンゴル至上主義者の
モンケやアリク=ブカを疑わせることとなった。
フビライは中国の統治には中国の文化の一部を受け入れることも必要と考えていたが、
兄達には理解されなかった。
南宋攻略の時には大ハーンモンケの親征であったが、
方面軍司令官のフビライはメンバーから外されていた。
左翼を率いていた一族のタガチャルが襄陽で撤退したため、
モンケの怒りをかった。
そのときフビライがモンケのもとに赴いて和解し、
左翼の大将として返り咲いた。
(どうもタガチャルは既にフビライとグルであったらしい。)
この戦いの最中モンケは病死した。
フビライは敵地で窮地に陥ったが、敵将賈似道と和議を結び
(賈似道はこのことを後に疑われる)北方に撤退した。
兄の死後の後継者候補はフビライと弟のアリク=ブカであった。
アリク=ブカは都カラコルムを抑え、またモンケ側近のウケも良かった。
一方フビライはモンゴル至上主義者と折り合いが悪く、
また味方になりそうな弟フラグとその一党は遠く西アジアに遠征していた。
そこでフビライは自分の本拠地開平府でクリルタイを開き、
勝手に即位した。
当然アリク=ブカは反発し、武力抗争に発展した。
そして4年後フビライが勝利し、名実共にフビライが大ハーンとなった。
しかし、対立する勢力をオゴタイ家の復権を狙うハイドゥがまとめ上げ、
フビライの死後まで続く内乱に発展した。
結果としてフビライの勢力は東方に限定され、
モンゴル帝国は中国征服王朝に変貌していった。
国号も中華風の元とし、都を大都(現在の北京)に定めた。
南宋への遠征も再開し、名将バヤンを起用して南宋を降伏させ、
さらに追撃して残存勢力も含め南宋を完全に滅ぼした。
そして、元は初めて漢民族以外で全中華を征服した国家となった
(これには異存もあるかもしれないが、
一般に合わせてここではそうしておく)。
しかしその際人々をモンゴル人・色目人・漢人・南人と階層に分け、
あくまでも征服者として振る舞った。
また高麗を服属させパガン王朝を征服したが、
日本・安南(ベトナム)・マジャパピト(インドネシア)
といった国々の征服は尽く失敗した。
長男チンギムは後継者として期待されていたが、
若くして亡くなり、フビライ亡き後は孫のティムールが継いだ。
フビライは征服した地である中国に理解を示し、
また軍事作戦でも働きを示すなど有能な人間であった。
しかし国内では民族で差別をし、
また全モンゴル領をまとめ上げることが出来なかったにも関わらず
領土を広げる遠征を繰り返し、成果を挙げることが出来なかった。
祖父のチンギス=ハーンには到底及ぶまい。
また、国が維持しきれないほどに拡大したにも関わらず
限界を見極めきれず遠征を繰り返した。
モンゴル帝国を中華帝国に変貌させたが、
安定した大国家に変えることは出来なかった。
これが元朝衰退の大きな理由であろう。
そしてモンゴル全体を通して衰退の最大の理由は内乱である。
フビライも兄と対立し弟と戦い、そして親戚のハイドゥと戦っている。
強い闘争心が安定期には仇となったと言えようか。