項羽(こうう)

[中国−秦・楚漢]

中国史上でも最強の英雄。 名は籍、羽は字。楚の抗秦の名将項燕の孫として生まれる。 叔父項梁の下で育つ。 少年時代は文武がモノにならず叔父を失望させたが、 成長すると堂々たる偉丈夫となった。 また、1つの目に瞳が2つある重瞳子であったという。 始皇帝の巡遊の行列を見たとき「彼取って代わるべし」 と言って叔父をあわてさせたが、 その言葉に相応しい覇気を持つようになっていた。 秦末の陳勝・呉広の反乱が起こると叔父に従い、 郡守殷通を殺して挙兵した。 この時項羽24歳。叔父項梁の副将として各地を転戦した。 項梁が秦将章邯に敗れ戦死すると、 項梁によって楚王に立てられた懐王は、項羽に魯公の称号を与え、 上将軍宋義の次将とした。 秦の攻撃を受けた趙の救援を命じられたが、途中宋義と対立し、 これを殺して軍を掌握した。 趙では圧倒的に優勢であった秦の章邯の軍に背水の陣で勝利し、 勇名を轟かせた。 諸侯を傘下に収め章邯の軍を降伏させるが、 秦の兵に不穏な動きがあったため章邯とその側近の司馬欣・董翳を残して 20万人の兵を穴埋めにして殺してしまう。 秦の都咸陽を目指すが、別働隊の劉邦が先に秦を降伏させていた。 軍師で亜父と呼んで敬っていた老人范増は劉邦を殺すことを進言するが、 鴻門の会で劉邦を許してしまう。 咸陽に軍を進め、降伏した秦王を殺し街で略奪して宮殿を焼き尽くした。 劉邦を漢中王、降伏した秦の3人の将を関中の王とし、 諸侯を配置して自分は「西楚の覇王」を名乗った。 また楚の懐王を義帝としたが、目障りなため遠国に移し殺してしまった。 しかしこの論功行賞はすぐに破綻し、まず斉・趙で反乱が起こり、 次いで漢中の劉邦が関中を制圧し、 義帝が殺されたことを知ると諸侯を集め項羽の本拠地彭城を攻め落とした。 斉の反乱を鎮圧した項羽はこれを攻撃、20倍の敵に勝利して奪回した。 これ以降劉邦と戦って何度も勝利するが、 その部下の陳平の策にはまって范増を疑い手放してしまい、 韓信に華北を制圧され、彭越に補給線を断ち切られ、 黥布に裏切られと組織力によって苦しめられる。 一旦劉邦と天下を二分することで和睦するが、 背後を突かれて諸将の援軍を得た劉邦に垓下で敗れる。 敵陣から楚の歌が聞こえてきたことで敗北を悟り、 脱出を試みるが失敗、己の運命を悟って自刎する。享年31歳。
項羽は戦術・武力において間違いなく世界でも最強クラスの将軍である。 戦って敗れることがなかった。 しかし、それに反して戦略・政略は子供のようにお粗末である。 最後に敗れた原因の1つはこれである。 もっと大きな原因は、あまりにも強かったため自惚れるところがあり、 部下を使い切れなかったことにある。 亜父の范増ですらケンカ別れしてしまった。 だから、己の弱点を部下で補うことが出来なかった。 敗れたのは項羽自身の言う天のせいではなく、 自分が人の上に立つのに向かない人間だったからである。 また、虐殺や略奪を繰り返し民衆を苦しめたことも忘れてはならない。
その反面、後世の人気が高いのも事実である。 虞美人との悲恋はほとんどフィクションであるが、 ずる賢い劉邦に比べて子供のような無垢な純粋さを持つ項羽には 愛嬌があるように見えるからだろう。 また、若くして死んだことへの判官贔屓もあるのだろう。

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