[中国−新・漢]
新末の動乱期の群雄の一人。
光武帝劉秀と対立した中で最大の勢力を率い、
天下統一の最後の障壁となった。
官吏の公孫仁の子として生まれ、自身も官吏となった。
公孫述が天水郡清水県の県令に任じられると、
若年を心配した父が部下を随行させたが、部下は一人で戻り
「述は人に教えてもらう者ではありません。」
と言った。
実際太守によって能力を評価され5県の県令を兼務したがよく治め評判となった。
王莽も評価して導江卒正(蜀郡太守)に抜擢しここでも名を上げた。
更始帝が即位すると蜀郡でも群雄割拠となったが、
懐柔しようとした群雄の宗成・王岑が成都で略奪を働くとこれを討ち、
また蜀郡を征服しようとした更始帝の軍も撃退して一大勢力を築いた。
野心を持った公孫述は蜀王、次いで皇帝となり、国名を成家(首都の成都から)とした。
公孫述はさらに勢力を広げ益州全域(四川盆地一帯)を領有し、
劉秀軍に敗れた延岑・田戎といった勇将を迎え入れさらに大きな勢力となった。
光武帝として即位し天下を統一しつつあった劉秀と敵対したが、
自立を求めて手を組んだ隗囂が憤死し残党が降伏すると
最後の敵対勢力として直接侵攻を受けた。
北からは来歙、東からは岑彭率いる軍が侵攻し敗退を重ねたが、
この両者を相次いで暗殺し劉秀陣営を苦しめた。
しかし軍の侵攻は止まらず、後任の司令官となった呉漢によって追い詰められていった。
それでも公孫述は降伏勧告を「天子は降伏などしない」と跳ね除け、
首都の成都が包囲されても延岑に「死中に生を求めなさい」と励まされ自ら戦ったが、
胸を刺されて落馬しその夜に延岑に後事を託して死去した。
延岑は呉漢に降伏したが許されず、公孫述・延岑の一族は皆殺しとなり、
成都は略奪され焼き払われた。
公孫述は若い頃から有能で知られ、
動乱の時代に入ってもその有能さは発揮され蜀に一大勢力を築いた。
劉秀から見て最後の大敵となったが来歙・岑彭を暗殺されるなど苦戦させられ、
まさに難敵であった。
しかし虚栄心・猜疑心が強く馬援には「井の底の蛙」と評され、
自身の親族と外部の人材ばかり登用し地元益州の人物を用いなかったので
あまり人望が得られなかった。
そこが(一部不穏な者を除いて)お人好しなくらい太っ腹な劉秀との差であろうか。
あとは益州に籠らず劉邦のように機を見て外に打って出るべきであったか。