[中国−新・漢]
光武帝劉秀配下の武将・政治家で雲台二十八将の第五位。字は子翼。
有力豪族の生まれで、上谷太守の耿況(第四位耿エンの父)に仕えた。
更始帝が新を滅ぼすと帰順した者は地位を保証すると全国に布告し、
耿況はこれに従い使者に帰順の証として印綬を渡したが、
使者は布告に反して印綬を返そうとしなかった。
寇恂は相手の権力が弱く強引なことは出来ないと踏み、
兵に強引に印綬を取り上げさせ、
耿況に戻した上で使者にもこれを認めさせた。
その後劉秀が河北制圧のために派遣されるとこれに付くよう耿況らに説き、
上谷の一武将として劉秀の傘下に加わった。
劉秀が肥沃な河内郡を平定するとケ禹の推挙によって河内太守となり、
劉秀軍の兵站を任されることになった。
この際ケ禹は名宰相と称えられた蕭何を引き合いに出したため
寇恂は蕭何と比べられるようになった。
寇恂はこの期待に応えて劉秀軍の兵站を支えたが、
蕭何の居た関中と違い河内は敵地(更始帝支配地)に接していたため攻撃を受けた。
ここで寇恂は用兵の手腕をも発揮して援軍の到来まで持ちこたえ、
援軍を率いた馮異と共に敵を一掃した。
この勝利によって劉秀は更始帝から完全に独立し、
光武帝として即位することに繋がった。
その後も汝南、潁川といった統治が難しい要衝の太守を務めて称えられ、
領民から「寇君をもう一年お貸しください」と陳情を出されたことすらあった。
潁川太守だった際に賈復の部下が殺人を犯したが、
賈復に任せると温情をかけられると考え独断で処刑した。
賈復はこれを恨み潁川に来たが、
寇恂は藺相如と廉頗の故事にならい敢えて逃げ隠れした。
そして劉秀の仲裁で故事のように和解しさらに後世の評価を上げた。
その後隴西では隗囂の残党である高峻相手に苦戦していたが、
劉秀が親征することになり寇恂はこれに従軍した。
寇恂は高峻の軍師皇甫文と交渉したが、
相手に降伏の意志が無いとわかると周囲の反対を押し切って処刑した。
周囲には高峻は怒り狂うと思われたが、実際には高峻はすぐに降伏した。
諸将に問われると
「皇甫文は高峻の知恵袋であり降伏の意志は無かった。
このまま返せば相手の思惑通りだが、
斬れば高峻は肝を潰し、相談できる相手もおらず方策が立てられないだろう。」
と答え、諸将を感嘆させた。
しかしこれが最後の活躍となり、天下平定達成前に病没した。
寇恂は蕭何に例えられる名政治家であり、河内太守として劉秀軍の兵站を支えた。
天下統一前に死去したことと二十八将を大臣などにしない方針のため
宰相として国家の基盤を築くことは無かったが、
河内が敵地に接していたため用兵の才も発揮した。
また更始帝の使者や高峻・皇甫文相手の強気(と言うか強硬)の交渉や
賈復相手の敢えての弱気な対応など、
状況に応じた柔軟な交渉力を発揮しまさに名臣と呼ぶに相応しい人物であった。