耿エン(こうえん)

[中国−新・漢]

光武帝劉秀配下の武将で、雲台二十八将の第四位。字は伯昭。 上谷太守となった耿況の長子で、父の下で文武を学んだ。 更始帝が王莽を倒すと自身の立場を案じた父耿況の命で使者として長安に向かったが、 王郎が河北で挙兵して一大勢力となるとこれに鞍替えする者が続出した。 しかし耿エンはこれを勢いだけの「烏合の衆」と断じ、 討伐に当たっていた劉秀に拝謁した (ちなみに烏合の衆は耿エンまたは公孫述の幕僚の言葉が語源である)。 耿エンは上谷の兵を率いて敵本拠地の邯鄲を落とすと述べ、 劉秀に「小僧が大志を持っておる」と言わしめた。 その後父耿況と漁陽太守彭寵は劉秀に味方し、 耿エンは上谷の兵を率いて奮戦し言葉通り邯鄲を攻略した。 河北を平定し劉秀が蕭王となると劉秀に北の幽州の平定を献言し、 呉漢と共に更始帝配下の太守を破って幽州を平定した。 劉秀が光武帝として即位すると、 反旗を翻した彭寵を皮切りに敵対する諸侯を次々に討ち、 斉で一大勢力を築いていた張歩も打ち破って同地を平定した (張歩は後に投降)。 これを聞いた劉秀は耿エンの功績は韓信以上と絶賛した (耿エンの活躍地域が韓信と被っていることを意識したのだろう)。 その後隴西で隗囂と対峙したが大きな活躍の機会は無く、 天下平定後に大将軍を辞し列侯として政治に参加し、 劉秀の没後ほどなく死去した。
耿エンは劉秀に拝謁時21歳の若者であったが、 いきなり敵本拠地を落としてやると大言壮語して劉秀に 「小僧がでかい口叩きやがる」と笑われた。 しかしその後自ら兵を率いて獅子奮迅の働きをして言葉通り邯鄲を攻略し、 大いに評価された。 また張歩との戦いでは情報操作によって敵を翻弄し、 武勇のみならず智謀にも優れたことを示して劉秀に絶賛された。 雲台二十八将の中でも岑彭と並ぶ知勇・才徳兼備の名将であると言えよう (呉漢は徳に難あり、馮異は武勇より知謀の人)。 さらに凄まじいのはケ禹よりさらに1歳若いことで、 韓信以上と言われた偉業を二十代の若さで成し遂げてしまった。 天下統一後は他の生き残りの二十八将と同様相談役になり、 国家を陰で支える役割に徹した。 韓信に例えられた耿エンだが、 その後の運命が大きく違ったのは主の劉邦・劉秀の差もあるだろうが、 本人の人徳(と野心)の差もあっただろう。

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