プロイセン王国(プロイセンおうこく)

[ヨーロッパ−近代]

現在のドイツ北部・ポーランド・リトアニア・ロシアに跨って存在した国家。 後にドイツ帝国建国の中心となった。 ドイツ東部を治める大領主であったブランデンブルク選帝侯は プロイセン公国の継子が断絶した際にこれを継承し同君連合を形成した。 プロイセン公国はポーランドに臣従していたが、 フリードリヒ=ヴィルヘルムは大洪水時代の外交的立ち回りに成功して ポーランドからの独立を勝ち取り併合の下地を整えた。 その息子フリードリヒ3世は同君連合からさらに進めて プロイセン王国の王フリードリヒ1世を名乗り、 スペイン継承戦争に軍を派遣して神聖ローマ皇帝でもあったオーストリア皇帝に 王号を認めさせ、正式にプロイセン王国が成立した。 その子「兵隊王」フリードリヒ=ヴィルヘルム1世や「大王」フリードリヒ2世の下で 軍事力を増強し、 オーストリア継承戦争・七年戦争の勝利によって肥沃なシュレージエンを獲得し、 またポーランド分割に加わって飛び地を解消し一躍大国の地位を得ることになった。 しかしフランス革命戦争・ナポレオン戦争ではフランス軍に敗退し窮地に陥ったが、 シュタイン・ハイデンベルクの政治改革、 シャルンホルスト・グナイゼナウによる軍制改革によって持ち直し、 諸外国と共にナポレオンを破って戦争以前より西方に領土を拡大し、 オーストリアに並ぶ大国へと飛躍することになった。 ウィーン体制下では他国と同様に保守反動政治によって政治・軍事改革は停滞したが、 経済面では産業革命の影響を受け国内産業の工業化が進んでいった。 ドイツ三月革命でフランクフルト国民会議が開かれると オーストリアを除いた小ドイツ主義が勝ってプロイセン王が皇帝に迎えられたが、 自由主義者を嫌った王によって提案は拒否され、革命は鎮圧された。 その後議会では自由主義勢力が伸びて保守的な王は危機感を抱いたが、 ビスマルクを宰相にすると保守派が勢力を盛り返し、 普墺戦争・普仏戦争の勝利によってドイツの盟主の地位を確立して プロイセンが主導するドイツ帝国を建国した。

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