[ヨーロッパ−近世]
ドイツの天文学者。
天体運動の「ケプラーの法則」で有名である。
南ドイツのシュヴァーベン地方の居酒屋の長男として生まれる。
生家はプロテスタントであったが、
南ドイツはカトリックの勢力が強く、生涯宗教には苦しめられた。
幼少時に天然痘にかかり視力を落とし、天文学者として大きなハンデを背負った。
家は貧しかったが奨学金を得て神学校に通い、
さらに大学に進学してコペルニクスの地動説に出会った。
卒業後グラーツの学校で数学と天文学の教師となったが、
オーストリア大公の命令でプロテスタントであったケプラーは退去を命ぜられて失職した。
その後天文学者のティコ=ブラーエに助手として招かれ、
これに応じてプラハに移った。
しかし実験者というよりデータ収集家であったティコ=ブラーエと
理論家であったケプラーは折り合いが悪く、
さらにティコ=ブラーエは天動説、ケプラーは地動説の信者であったこともあり、
共同作業は上手くいかなかったようである。
ティコ=ブラーエの死後、膨大な観測データを使えるようになり、
ようやく研究が進むようになった。
一方、宮廷占星術師として働いていたが、雇い主のルドルフ2世が
ティコ=ブラーエの遺族に観測データの代金をあまり払わず、
そのため遺族との騒動に巻き込まれた。
紆余曲折の末、天体の運動が円運動ではなく楕円運動であるという「ケプラーの法則」
を発表した。
この後天然痘で妻子を失い、パトロンのルドルフ2世の死後はリンツに移って数学官となった。
そこで再婚したが今度は母が魔女裁判にかけられ、故郷に戻って弁護に尽くした。
母の無罪は勝ち取ったものの、その後30年戦争の余波でリンツに居られなくなり、
ウルムに移住した。
最期は給料の催促にプラハに赴いた道中で死去した。
ケプラーは天体運動の「ケプラーの法則」で知られる。