[ヨーロッパ−中世]
クヤヴィ=ピャスト朝のポーランド王。
領土を大幅に拡大し「ヴィエルキ(大王)」または「農民王」と呼ばれる。
当時のポーランドは父ヴワディスワフ短身王が分裂状態からかろうじて統一した所で、
ドイツ騎士団やボヘミアなどの外敵に悩まされていた。
専ら武力で敵と戦った父に対し、カジミェシュはまず外交を用いた。
ハンガリーとの同盟を背景とした上で、ボヘミアに大金を送って和平を結び、
さらにドイツ騎士団に対して教皇の仲介と領土割譲によって和平した。
神聖ローマとの仲が険悪になると、シロンスク(シュレジエン)を割譲して和睦した。
西方は領土を犠牲にして和平を勝ち取ったが、
東方のガーリチ公国・リトアニアに対しては武力侵攻によって領土を広げ、
結果としてポーランドは分裂前に匹敵する大国となった。
またウクライナ・黒海への交易路を安定させ、
迫害されていたユダヤ人の保護により商業を発展させた。
さらに司法制度を整備して貴族の権限を抑えて王権を強め、
クラクフにポーランド初の大学であるクラクフ大学(後のヤギェヴォ大学)を建設するなど
内政においても目覚ましい成果を上げた。
特に農民の待遇を改善したことで「農民王」と呼ばれるが、
農業に限らない多くの成果から「大王」とも呼ばれる。
生涯4度結婚したが、後継ぎ息子はできず、
狩猟中に事故死した後は甥にあたるハンガリー王ラヨシュが
ポーランド王ルドヴィク1世として即位した。
カジミェシュ大王はポーランド史上最も成功した王であり、
「木造のポーランドに現れ、煉瓦のポーランドを残して去った」
と言われる発展を実現した。
西方の強敵相手の譲歩は弱腰過ぎると批判されることもあるが、
結果として割譲したより遥かに広大な領土を獲得し、
ポーランドを再び大国へと引き上げた。
他国にも「大王」或は「大帝」と呼ばれる君主はいるが、
カジミェシュは軍事に突出した能力があったわけではない。
ローマのオクタヴィアヌスのように外交・政治力によって「大王」の名を獲得した。
後の特にポーランド=リトアニア共和国において、
ヤン=ソビエスキのような武勇に優れた王はいたが、
カジミェシュ大王のような政治力が優れた王は出現しなかった(或は出現出来なかった)。
それがポーランドの不幸であったが、
同時にカジミェシュがいかに得難い名君であるかも物語っている。