カール大帝(カールたいてい)

[ヨーロッパ−中世]

カロリング朝の全盛期を築いたフランク王。 カールはドイツ語で、フランス語のシャルルマーニュの呼称も有名。 カロリング朝の初代小ピピンの息子で、弟カールマンと共にフランク王となった。 しかし弟とは不仲で、カールマンは早世したものの、 その一族は北イタリアのランゴバルド族を頼って反抗した。 このランゴバルドに勝利することで、カールはイタリアの覇権を握った。 その後はイベリア半島のイスラム教徒と戦ったが、 その際ピレネー山中で襲われた事件を物語にしたのが「ローランの歌」である。 このとき手痛い打撃を受けたものの、 後にこれを撃退してヨーロッパでのキリスト教徒側の優位を確定させた。 また、キリスト教引いてはフランクの覇権を受け入れないゲルマン部族を討ち、 東方のスラブ人にも勝利して、支配基盤を確立した。 また、父に倣ってローマ教皇に所領を寄進し、ローマ教皇の世俗の権力を確立させた。 これらの業績から、教皇によってローマ皇帝の称号を授けられた。 ここで初めてカールはフランク王から大帝となったのである。 後にローマの正当後継者を自認するビザンティン皇帝によっても帝位が承認され、 後の神聖ローマ帝国の元となった。
カール大帝の即位前は、後のイメージとは異なりヨーロッパにはキリスト教に服しない 民族が多く存在した。 カール大帝の覇権確立によって、 キリスト教がヨーロッパの支配者としての地位を確立したのである。 このことからカールは「大帝」と呼ばれるのである。 反面、自身の戴冠と教皇領の確立により、 中世ヨーロッパの皇帝と教皇の対立の構図も生み出してしまった。 また、当時の西ヨーロッパはビザンティン帝国やイスラム帝国と比べると未開であり、 カール大帝も宮廷の維持のためしばしば領内を移動する必要があった。 カール自身も洗練された貴人ではなかったが、豪放磊落で魅力に溢れた人物であり、 後にローラン伝説などで理想的な王として語られることとなった。

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