[ヨーロッパ−近世]
ハプスブルク朝の神聖ローマ帝国皇帝・スペイン王。
スペイン王としてはカルロス1世。
2つの大国の君主を兼任し、
宗教改革やオスマン帝国の侵攻といった困難な情勢を乗り切った英主として知られる。
ネーデルラントのブルゴーニュ公フィリップ美公と
カスティーリャの王女ファナの長男として生まれた。
後にスペインと神聖ローマ=ドイツの君主となったカールだが、
生まれたのは父の領地であったフランドルのガン(ゲント)であり、
母語はフランス語であった。
カール自身フランス語とフランスを愛し、
スペインでも良き君主となるべくスペイン語を覚えたが、
ドイツ語は馴染めず生涯話そうとしなかったという。
幼い頃父の死によってブルゴーニュ公を継ぎ、
フランドルの領主となった
(この頃ブルゴーニュ公領はネーデルラントのみでブルゴーニュは含まれていない)。
祖父のアラゴン王にして初代スペイン王のフェルナンド2世が死去すると、
今度は母と共同でカスティーリャ王=スペイン王となった。
その2年後にスペインに入国したが、
その際スペインの人々は立派過ぎる「ハプスブルク顎」に驚いたという。
さらにその後父方の祖父マクシミリアン1世が死去すると、
オーストリアのハプスブルク家領も継承した。
こちらは主にスペイン生まれの弟フェルディナントに任せることになった。
さらに神聖ローマ皇帝の座をフランス王フランソワ1世と争ったが、
新大陸植民地やドイツの豪商フッガー家の財力を得たカルロスが勝利し、
カール5世として即位した。
しかしその後フランスやオスマン帝国を始めとするイスラム勢力の戦いに忙殺され、
新大陸の莫大な富はスペインの発展にはあまり寄与しなかった。
まずフランス王フランソワとの戦いであるが、
主にフランスが代々狙っていたイタリアで戦うことになった。
この戦いはフランソワを捕虜とするなどほとんどカールが勝利し、
イタリアはスペインの覇権に組み込まれたが、
そのために費やした費用も莫大なものとなってしまった。
またオーストリアを圧迫していたオスマン帝国や
地中海を荒らしていたバルバリア海賊とも休む間もなく戦い続けた。
戦場での勝率は高かったものの、
これらの敵が全て手を組み、決着は次世代に持ち越されてしまった。
またこの時代ルターによる宗教改革も始まった。
カールは皇帝という立場上カトリックを支持しルターは結局追放したが、
プロテスタントの隆盛は止まらず、
アウグスブルクの和議でプロテスタント諸侯に譲歩することとなった。
このような戦い続きの統治に疲れ、
通風の悪化もあり晩年にはヨーロッパ君主としては珍しく退位し、
オーストリアは弟フェルディナントに、
スペイン・ネーデルラントは息子フェリペ2世に譲った。
最後は修道院に隠棲し、間もなく死去した。
カールは間違いなく当時のヨーロッパ君主の中で最も英邁な君主の一人である。
しかし、なまじ広大な領土を継承してしまったため、
当時のヨーロッパの抱える問題ほとんど全部の当事者となってしまい、
問題解決のためカール自身と統治するスペインに莫大な負荷をかけてしまった。
当時スペインは広大な新大陸植民地から莫大な富を得ていたが、
それもほとんど戦争に費やされ、国内の発展には使えなかった。
情勢の所為もあるが、彼は英雄ではあったが名君にはなれなかった。
彼は生まれついてのエリートであり、
それがあまり「巧みな(或いは狡猾な)」
手段を取れなかった彼の限界だったのかもしれない。
最も彼自身は良き君主であろうと努力し続けており、
普通の王であったら名君になれたかもしれない。
やはり飛び地だらけの複数の国の統治は難しいということであろう。