カール4世

[ヨーロッパ−中世]

ルクセンブルク朝の神聖ローマ帝国皇帝・ボヘミア王・ルクセンブルク伯。 ボヘミア王としてはカレル1世。 チェコの基盤を築いた屈指の名君として知られる。 チェコのプラハで生まれ、当初はヴァーツラフという名であった。 後にフランス宮廷に預けられそこで成長し、5ヶ国語を話す教養人へと成長した。 また、そこでフランス王と同じシャルルと改名した (フランス語でシャルル、ドイツ語でカール、チェコ語でカレル)。 父ヨハンが失明すると代わってボヘミアを統治するようになり、 さらに無理に出陣したクレシーの戦いで父が戦死すると、 ボヘミア王とルクセンブルク伯を継承した。 またドイツ諸侯の対立からドイツ王にも推され、 ライバルとの抗争に打ち勝ち単独のドイツ王となった。 その後ルクセンブルク伯を弟ヴェンツェルに譲り、 自分はローマに遠征して教皇から神聖ローマの帝位を授けられた。 以後軍事力の使用を控えて政治改革を推進し、 帝国の混乱を収拾するため金印勅書を発布した。 これで選帝侯の制度を確立し、帝国は安定期を迎えることとなった。 しかし、代償として選帝侯に大きな権限を与え、 帝国内諸侯の自立傾向が強まることとなった。 また外交ではフランス・ポーランドとの国境問題を解決し、 ローマ教皇のアヴィニョン捕囚を終わらせ、威信を大いに高めた。 さらにプラハに帝国最初の大学を創設するなどボヘミア・プラハの発展に努め、 プラハはヨーロッパ有数の文化都市として発展した。 それまでの皇帝と異なり即位後はイタリアにあまり干渉せず イタリアの皇帝支持者を落胆させたが、 その分本来の自領であるボヘミアやドイツの発展に尽くし、 チェコでは今でも最高の名君の一人として評価されている。 カールはルクセンブルク家の強化にも努めたが、 彼の死後息子の代にルクセンブルク家は没落していった。
カールはカレル橋に名を残すなどチェコの基盤を築いた名君 (或いは文化英雄) として評価されている。 ルクセンブルク家はその死後没落し、 また金印勅書の影響で帝国の分裂傾向は強まったが、 その治世は総じて高い評価を受けている。 息子 (特に次男ジギスムント) の代が散々だったため余計評価が高いのかもしれない。

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