韓信(かんしん)
[中国−楚漢]
- 劉邦配下の無敗の名将で、三傑の1人。
淮陰の出身で、若い頃はしがないチンピラであった。
脅されて「ならぬ堪忍するが堪忍」と人の股をくぐり、
「股くぐりの韓信」と呼ばれ、
老婆に食べ物を恵んでもらった事もあった(かなり情けない)。
秦末動乱が起こると項梁・項羽の軍に加わり、
そこで秘められた軍事的才能を開花させた。
しかし、自負心のカタマリである項羽にはなかなか認めてもらえず、
軍を去って劉邦についた。
しかしここでもなかなか認められず、
夏侯嬰や蕭何らには認めてもらったものの、
肝心の劉邦に相手にされず逃亡するが、蕭何によって引き止められた。
劉邦は蕭何が逃亡したと思い詰問したが、そこで韓信を「無双の国士」
(天下に2人といない逸材)と紹介したため、一躍大将軍に抜擢される。
そこで、項羽が部下を使いこなせないこと、
劉邦が関中で人気がある一方、
秦の兵を死なせて生き残った王の章邯らにはもはや人望が無いことを的確に指摘し、
関中攻略を進言した。
韓信は全軍を率いて関中の大部分を瞬く間に平定、
最後に残った章邯も水攻めにして自殺に追い込んだ。
その間劉邦は諸侯と共に項羽の留守を狙って敵首都である彭城を占領したが、
戻ってきた項羽に敗北し、
多くの諸侯が再び寝返って対局は振り出しに戻ることになった。
韓信は戦局を有利にするため別働隊を率いて主に華北の制圧に当たった。
まず手始めに魏王豹を破って捕虜にし、
わずかな兵を率いて張耳と共に趙と戦った。
陳余率いる敵軍は味方の七倍近い大軍であったが、
井ケイの戦いで「背水の陣」と呼ばれる戦法で勝利し、
趙を制圧して敵の軍師だった李左車を軍師として迎え、張耳を趙王とした。
李左車の進言で燕を服属させたが、
負け続けの劉邦によって配下の兵を奪われ、
また不利な条件で斉と戦わなければならなくなった。
斉は韓信の攻撃の前に[麗β]食其の外交交渉によって服属していたが、
説客[萠リ]通に発破をかけられそのまま進軍し、
[麗β]食其を死なせることになった。
斉は項羽に援軍を頼み龍且を大将とする援軍が加わったが、
[シ維]水の戦いでこれを破り斉を征服した。
韓信は占領した領国の安定のため仮王となることを劉邦に求め、
劉邦はこれに激怒したが、張良と陳平に諌められ、
韓信を繋ぎ止めるため正式の王とした。
このとき項羽から使者が送られ、
[萠リ]通には自立を勧められて韓信は大きな岐路に立ったが、
結局韓信は劉邦の部下となることを選んだ。
しかし項羽との最後の戦いには、領土を求めるように遅れて到着し、
完全な忠臣にはなりきっていないことを示した。
垓下の戦いではハンニバルのような両翼による包囲戦法で常勝将軍項羽を破り、
劉邦に天下をとらせた。
その後力を恐れられた韓信は、
先ず楚に国替えさせられて率いていた軍隊と引き離された。
さらに項羽の部下であった鐘離眛が韓信を頼っていたが、
謀反の疑いをかけられると彼に相談、
「貴公は長者(徳の有る者)ではないな!」と罵られ自刃させてしまい、
大きな汚点を残した。
彼の首を劉邦に差し出したが、許されず捕らえられ、
淮陰侯に格下げして軟禁された。
ある日劉邦に将軍としての能力を問われ、
「陛下はせいぜい10万の将でしょう」自分は
「多々益々弁ず」(多ければ多いほど良い)と答えた。
ならば何故自分が天下を取れたのかと問われ、
「陛下は将の将、天に与えられた才能です」と返した。
後世から見てもこれは正確である。
後に趙の宰相となっていた陳[豕希]と共に謀反を計画するが、
事が露見し、蕭何と呂后によって殺された。
韓信は中国史上はおろか世界でも最高レベルの名将である。
その戦術は天下一品、臨機応変の戦法で、
不利な条件が多いにも関わらず将としては1度も負けなかった。
「多々益々弁ず」とは、
ジャジャ馬を好むマニア或いはオタクの心境のようですらある。
しかし、戦略・政略はあまり得意ではなかったようである。
彼の運命を決めたのは、やはり斉を制圧した時点での決断であろう。
[萠リ]通の言った通り、韓信自身のためには自立するべきであった。
そうすれば三国志のような状態になったか、
或いは彼の能力なら天下を取ることも可能であったかもしれない。
天下が要らなければ完全に劉邦の部下に徹するべきであった。
恩賞をねだるような振る舞いがその結末につながったといえるだろう。
しかし私はそれらのことはべつに構わない。
ただ、[麗β]食其や彼を頼った鐘離眛を死なせてしまったことが残念である。
功績を挙げた同僚や己に縋った者を死なせなければ、
たとえ悲劇的結末を迎えようとも本当の英雄と言えたのである。
両者の死こそ韓信最大の汚点である。
- 1.と同じ時代に韓王となって劉邦に従った。
天下統一の後代王に国替えされたが、
劉邦に疑われたため匈奴と結んで反乱、敗北して匈奴に逃れる。
後に匈奴とともに漢と戦って戦死する。
彼もまた劉邦の猜疑心の犠牲者の1人であった。
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