[中国−新・漢]
光武帝劉秀配下の武将で、雲台二十八将の第三位。字は君文。
若い頃に学問を志して「尚書」を習い、師に
「容貌・志に見所があり、将軍宰相の器である」と評された。
役人となったが動乱の時代に挙兵して緑林軍に加わり、
更始帝によって劉嘉の部下の校尉となったが、
まもなく劉嘉は親戚である劉秀に賈復を紹介してその配下とした。
劉秀の下ではケ禹の推薦もあって劉秀の傍で戦い、
全身に傷を負いながら勇戦して敗れることなくその武勇を轟かせた。
五校やケ奉との戦いでは瀕死の重傷を負ったが、
半年ほどで回復し前線に復帰した。
ただしあまりにも身の危険を顧みない戦い方をしたため
劉秀は心配して常に賈復を自身の目の届く所に置き、
遠征軍を率いさせることは無かった。
賈復は非常にプライドが高く同僚と衝突することもあったが、
論功行賞では自己主張することはなく皆に不思議がられた。
これに対し劉秀が「賈君の功は全て私が見ている」と答え、
君臣の信頼の深さを示した。
ひたすら戦いに生きた猛将の賈復だったが、
天下が統一されるとケ禹と共に将軍を辞し、
特進(相談役)として兵力削減や儒教による教化に努め、
劉秀の死の前年に死去した。
賈復は大軍を率いることは無かったが、
劉秀配下一の猛将として常に前線で武勇を振るい、
度々傷つきながらも不敗を守り、
雲台二十八将第三位の評価を得た。
一方天下統一後はあっさり将軍職を降り、
文治に努め見事な転身を果たした。
ちなみに朱[示古]らによって宰相に勧められたこともあったが、
劉秀が功臣を要職に就けない方針を採ったため見送られ特進となった。
プライドも高く三国志の関羽のような人物だが
軍司令官として失敗し荊州と自身の命を失った関羽とは
対照的な運命を辿った。