ユスティニアヌス
[ビザンティン帝国]
- ビザンティン帝国ユスティニアヌス1世。大帝と呼ばれる。
叩き上げの軍人であるおじのユスティヌスの下で経験を積んだが、
そのおじが高齢で皇帝になると、事実上の帝国の支配者になった。
彼は「ローマ帝国」の復活を目論み、まずローマ教会との関係を復活させた。
自身が皇帝になると、本格的に旧西ローマの征服へ乗り出した。
しかし、帝国内部の統治はあまり成功せず、
首都コンスタンティノープルで後に「ニカの乱」
と呼ばれる内乱を引き起こしてしまった。
このときは皇后テオドラの助言と名将ベリサリウスの
(冷酷な) 果断により鎮圧に成功したと言われる。
その後自身は「ローマ法大全」の編纂やアヤ=ソフィア大聖堂の建立など
内政に打ち込み、
配下のベリサリウスを派遣してアフリカのヴァンダル王国、
イタリアの東ゴート王国といったゲルマン系王朝を征服させた。
しかし、途中ベリサリウスを更迭して高齢の宦官であるナルセスと交代させたり
(幸運にもナルセスも名将であったのだが) 、
東のササン朝ペルシア相手に苦戦し
(一度クビにした) ベリサリウスの力で辛うじて引き分けに持ち込んだり、
戦乱の結果肝心のイタリアが荒廃したりと、必ずしも順風満帆とは言い難かった。
実際、拡大した領土はユスティニアヌスの死後呆気なく失われる。
後世「法の民」ローマの法をまとめ上げたローマ法大全とアヤ=ソフィア大聖堂の建立、
領土拡大によって大帝と呼ばれるが、彼自身その名に相応しいか甚だ疑問である。
特に本土であるバルカン半島統治の軽視によるスラブ人の侵入、
国内の不満の増大、名将ベリサリウスに対する不当とも思える仕打ちなど、
小人的な部分が見られる。特に最後の項目は大帝として減点が大きい。
- ビザンティン帝国ユスティニアヌス2世。
普通ギリシア語で「ユスティニアノス」2世と呼ばれる。
1. の統治を目標とし、トルコ人やスラブ人を撃破したが、
国内の不和も引継ぎ、帝位を追われて鼻を削がれて流刑になった。
このため「鼻削がれ皇帝」という嬉しくないあだ名がついた。
後内乱で再び帝位に返り咲いたが、復讐のため弾圧を行い、反乱を招いて殺害された。
1. もいろいろ問題のある人物であるが、それにすら及ばない人物である。
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