[ローマ帝国]
ローマ皇帝。「背教者」の異名を持つ。
コンスタンティヌス大帝の甥として生まれたが、生後間もなく母が病死し、
コンスタンティヌス大帝の死の直後、
恐らく兄弟を信用しなかった大帝の意志も加わって家族が粛清され、
兄ガルスとユリアヌス自身のみが生き残った。
その後小アジアで哲学教育を受け、
表面はキリスト教徒を装いながら徐々にギリシア哲学と太陽神信仰に傾倒していった。
兄ガルスがコンスタンティウス帝によって副帝にされたが、
失政と謀反の罪に問われて処刑された。
ユリアヌスも共謀を疑われ監禁されたが、
これは皇后エウセビアの執り成しで釈放された。
その後アテネで哲学とギリシア風の密儀にのめり込んだが、
副帝に推されてガリアに赴任した。
ガリアで意外な軍事手腕を発揮してゲルマン人を撃退し、軍の信望を集めたが、
これがコンスタンティウスの警戒を招き、東方でササン朝ペルシアと戦うように命じられた。
しかし、軍はこの命令に従わず、逆にユリアヌスを正帝に推戴して反抗した。
ユリアヌスも異教信仰を告白し、コンスタンティウスと雌雄を決しようとしたが、
コンスタンティウスが病死し、後継者に唯一の身内であるユリアヌスを指名したため、
戦わずに唯一の皇帝となった。
ユリアヌスは旧宗教の復権を目指してキリスト教徒を追い落とし、
太陽神信仰を積極的に推し進めた。
しかし、帝国の本拠地となっていた東方は、
アンティオキアを始め既にキリスト教に染まっていたため、
政策は思うようには進まなかった。
東方のペルシア問題の解決とと国内の不満を抑えるためペルシア領内に侵攻したが、
逆に返り討ちにあい、陣中で没した。
ユリアヌスはローマ世界がキリスト教に染まっていく中で、旧宗教の最後の望みとして現れ、
若くして散っていった。
彼の死が、その後のヨーロッパのキリスト教支配を決定付けたとも言えよう。
最も、彼が長寿を保ったとしても流れが変わったかどうかは疑問であるが。
彼は、「神は裏切ったが国家は裏切らなかった」と言われる名君である。
恐らく、彼の哲学への傾倒ぶりからも、
五賢帝のマルクス帝と似たようなタイプであったと思われる。
その意味で、生まれる時代を間違え、時代に翻弄された悲劇の英雄であるとも言える。
このあたり、合理的思想に周囲がついていけなかった
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を連想してしまう。
もっとも、そのおかげで後世の知名度が高まったのも事実なのだが。