ジュチ=ウルス

[モンゴル帝国]

モンゴル=ウルスの一部で中央アジア北部から黒海北岸一帯 (キプチャク草原) を支配した国家。 支配領域から「キプチャク汗国」と呼ばれることも多い。 また首都サライの黄金色の帳幕の宮殿から 「金帳汗国 (黄金のオルド) 」とも呼ばれる。 チンギス=ハーンの長子ジュチの息子の支配領域に付けられた名であるが、 実際には1つの国としてまとまっていたわけではない。 ジュチは父からイルティシュ川河畔の草原を与えられ、 それがジュチ=ウルスの起源である。 ジュチの死後次男バトゥが家長となり、 その後バトゥはヨーロッパ遠征の司令官となった。 その功績によりジュチ=ウルスにロシア・ウクライナの支配権が与えられたが、 バトゥはウルスの西側のヴォルガ川流域及びロシア・ウクライナを統治し、 ウルスの東側のイルティシュ川流域はバトゥの兄オルダが統治した。 このバトゥ=ウルス (青帳汗国あるいは金帳汗国) とオルダ=ウルス (白帳汗国) は実質別の国として機能していた上、 それぞれのウルスの下には多くの小さなウルスがあり、 さらにルーシの諸公国が属国として従っていた。 所謂「タタールのくびき」としてルーシを支配していたのはバトゥ=ウルスの方である。 バトゥの死後遺児が早世したため弟ベルケが後継者となったが、 その代に西アジアのフラグ率いるイル=ハン国と対立し、 アゼルバイジャンの支配権を巡って戦ったものの敗北した。 その後モンゴル本国の後継者争いによる統治力低下もあって独立傾向を強め、 またイスラム化が進んでいった。 バトゥ・オルダの家系が途絶えると次々とハンが入れ替わる混乱状態となり、 一時トクタミシュが再統一したもののティムールに敗れて没落、 各地でハンが乱立して分裂していった。 サライのジュチ=ウルス本体と言える政権は 従属下で力を蓄えたモスクワに敗れてルーシ支配権を失い弱体化し、 最期は分立したクリミア=ハン国によって滅ぼされた。 分裂した諸ハン国もロシアによって併合されたが、 中央アジアではジュチの末裔が19世紀まで統治していた。

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