イエス=キリスト

[中東−ローマ帝国]

言わずと知れたキリスト教の教祖。 本名はイェホシュア(ヨシュア)で、モーゼの後継者と同名でユダヤ人にはありきたりな名前。 イエスはそのギリシア語の音訳。 キリストはヘブライ語はメシア(油を注がれた者=聖別された者=救世主)のギリシア語訳。 キリスト教が最初ギリシアを中心に布教されたため聖書も教祖様の名前もギリシア語である。 その生涯は新約聖書の中の4つの福音書を見るしかない。 大工ヨセフと婚約者マリアの長男として紀元前4年頃に生まれる。 (本来紀元元年のはずだが、少しずれていたらしい。) 聖書では、処女マリアが聖霊によって身ごもって生まれたとされている。 当初父の下で大工として修行したが、ローマ帝国による間接支配をうけ、 メシア信仰が広まるユダヤの地で彼も宗教に関心を持たずにはいられなかったようである。 やがて洗礼者ヨハネと出会い、彼の下で洗礼を受け、さらに宗教的教育と修行を重ね、 ユダヤ教の改革者として伝道を開始する。 彼が伝道を行ったのは5年に満たないが、その間に平和と博愛を説き、 形式主義的な戒律を批判する独自の見解を広めようとした。 彼が各地を巡ったとき、聖書では数々の奇跡を起こし、 それによって人々の関心を引いたとある。 だが、彼の教義は武力による独立を求める民衆には受け入れられなかった。 やがて戒律批判がユダヤ教の祭司の敵意を招き、彼の命も危険にさらされる。 そのときイエスは敢えて危険を冒してエルサレムへ行き、 最後の時の準備をした。 所謂最後の晩餐、ユダの裏切りを経て、ユダヤの祭司に訴えられ、 総督ピラト(この頃ユダヤ王国からローマの直接支配に変わっていた)に引き渡された。 ローマ人ピラトは処刑に消極的だった(関わりたくなかったのだろう)が、 強硬な祭司や民衆に押されて磔による処刑を決めた。 そして(おそらくイエスの予定通り)ゴルゴダの丘で十字架に架けられて息絶えた。 聖書では、この後イエスは復活し、弟子たちを勇気付けてから天に昇ったとされる。
彼は博愛を説いたが、ローマに武力で勝つことを望む民衆には受け入れられなかった。 しかしユダヤはイエスが危惧した通り武力反乱に失敗し、 最終的にはディアスポラによって祖国を失うこととなった。 後年のマハトマ=ガンジーの成功、 さらにローマはイギリスよりも「話せば分かる」ことを考えれば、 イエスの主張は決して夢想ではなく、十分現実的なものだったと言えよう。 そんなわけで未だに祖国のユダヤ人からはメシアと認めてもらえないイエスであるが、 その教義は弟子達の手で世界中に広まった。 特にイエスは30代前半と教祖としては異例なまでに若くして死んだため、 布教における後継者達の役割はとりわけ大きかったと言えよう。 反面、その布教の過程でイエスの教えも変貌し、 ユダヤ教から独立してキリスト教となり、さらにローマ帝国の主流派にまでなると、 極めて暴力的・排他的となり、それが他宗教を圧迫してさらにキリスト教を広めることとなった。 十字軍や植民地支配がその好例である。 そんな己の理想とかけ離れた後世のキリスト教の様を見て、 イエスはどう思うだろうか。 己の命を捨ててまで理想を訴えたというのに......

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