[ヨーロッパ−近世]
ポーランド王で、「レヒアの獅子」と呼ばれた名将。
ポーランド貴族の出身で、クラクフ大学で哲学を学んだ後西欧を旅行し、
王侯と知り合いになった。
帰国後に軍に入隊して騎兵隊長となり、
ウクライナ=コサックとの戦いで戦功をあげて昇進した。
戦間期にはイスタンブールに公使として派遣され、オスマン帝国の軍制を学んだ。
その後もスウェーデンやクリミア=タタール相手に戦功を重ね、
事実上の最高司令官である大ヘトマンになった。
さらにオスマン帝国相手に勝利を治めて貴族や国民の人気を得て、
ポーランド独自の国王選挙によりポーランド王に選出された。
王となって後は長年の戦乱で疲弊した国土の復興に努めた。
フランスと同盟して独立したプロイセンを征服しようとしたが、
プロイセン君主でもあるブランデンブルク選帝侯がフランスと同盟したことで失敗し、
仮想敵国だったオーストリアと同盟した。
この同盟に従い、オスマン帝国によるウィーン包囲の際には援軍として参戦し、
重装騎兵を率いて数十万の敵軍を潰走させて勝利の立役者となり、
その有名をヨーロッパ中に轟かせた。
しかし、その高名に反してポーランドが国家として得たものは少なく、
領地など得るものはほとんど無かった。
さらに同時期にロシアと平和条約を結んだが、
その結果ロシアに占領された領土(キエフを含むウクライナの大部分)
を失うはめになってしまった。
またヤンは国王の世襲化を狙っていたが、
王妃を含む貴族が悉く反対して実現せず、
ヤンの死後の王はザクセン選帝侯のフリードリヒ=アウグストが選ばれた。
ヤン=ソビエスキは優れた名将であり、その武名をヨーロッパ世界中に轟かせた。
反面、王としてはポーランド独自の貴族共和政の制約もあって成果を残せず、
ポーランドの衰退を止めることはできなかった。
この時代のポーランドは、
ヤン=ソビエスキやその前にスウェーデンに勝利したコニェツポルスキなどの名将はいるのだが、
カジミェシュ大王のような優れた政治家には恵まれなかった。
結局ユリウス=カエサルのように機能不全を起こした貴族共和政を改める天才は現れず、
ポーランドは衰退の末周辺国によって分割され消滅することになった。