イスタンブール

[ギリシア・中東]

トルコ最大の都市。約1600年にわたって大国の首都であり続けた歴史ある街である。 バルカン半島とアナトリアの間のボスフォラス海峡に建設され、 ヨーロッパ・アジア・地中海・黒海を結ぶ十字路として繁栄を続けた。 最初はギリシア人ビュザスとアンテスによって建設され、 ビザンティウムと呼ばれた。 ローマ帝国時代にコンスタンティヌス大帝がここの地の利に目をつけ、 新たな首都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)を建設した。 東方の経済力を活用するためと、ローマの旧勢力を嫌ったためと言われる。 その後テオドシウス大帝の死後二人の息子に帝国が分けられ、 再び統一されることなく西のローマは滅亡したが、 東のローマとその首都コンスタンティノープルは生き延び、さらに発展した。 ローマと同じように元老院がありコロセウムで戦車競技が行われたが、 この街はあくまでもキリスト教の都として発展した。 それ故帝国は東ローマと言うよりもビザンティン帝国と言ったほうが適切であると思われる。 ただし、西のローマ教皇は後に神聖ローマ皇帝と覇権を争ったが、 コンスタンティノープルの総大主教は皇帝を超えることは無かった。 またこの街は鉄壁の守りでも知られ、 戦略上の重要性からペルシア・イスラム教徒・北方の民族等に度々攻撃されたが、 十字軍とオスマントルコを除いて全て撃退している。 最盛期には人口100万に迫り、長安やバグダッドに次ぐ世界有数の大都市であった。 しかし、内乱やトルコ・ヴェネツィアの台頭によって衰え、 十字軍によって陥落させられた。 この際大規模な略奪を受け、大きな打撃を被ったのである。 その後ビザンティン帝国側のミカエルが十字軍諸侯の隙をついて街を奪還したが、 シチリアやトルコの侵略は足止めしたものの再び大国の栄華を取り戻すことはできなかった。 1453年ついにオスマントルコの攻撃によりビザンティン帝国は滅亡したが、 街はオスマントルコの首都として新たに生まれ変わることとなった。 この時にイスタンブールと呼ばれるようになった (語源はイス=テン=ポリン−街へともコンスタンティノープルが訛ったとも言われる) が、 正式名称はコンスタンティーニエであり、 正式にイスタンブールとなったのは20世紀の革命以降のことである。 以後賢明にもトルコは以前のキリスト教建造物の多くを破壊せず、 改装してイスラム教のモスクとして使用し、現在まで多くの文化遺産を残した。 街の運命は今度はオスマントルコと共にすることとなり、 トルコが地中海の覇権を失い、大航海時代に地中海世界の重要度が低下すると、 街の繁栄も下火となった。 19世紀に近代化もしたが、それよりもヨーロッパ列強の抗争の被害が大きかった。 20世紀第一次世界大戦でトルコは敗者となり、街は連合国に占領されたが、 アタチュルクの革命で革命軍が街を取り戻した。 以後革命新政府は首都を内陸のアンカラへ移し、 イスタンブールはついに首都ではなくなった。 しかし、今でもこの街はトルコの経済・文化の中心都市であり続けている。

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