陰麗華(いんれいか)

[中国−新・漢]

後漢の光武帝劉秀の皇后・明帝劉荘の母。諡号は光烈皇后。 劉秀とは同郷の豪族出身で、劉秀が 「官を得られば執金吾、妻を娶らば陰麗華」 と憧れる存在であった。 更始帝即位の年に劉秀と結婚したが、 当時は劉秀の兄劉[糸寅]が殺害された直後であり、 更始帝の警戒を解くためのパフォーマンスの一面があったようである。 その後すぐに郷里に戻され、劉秀が河北遠征に行く際にも事実上の人質として郷里に残った。 その後劉秀は真定王劉楊の助力を得るため郭聖通と政略結婚をし、 息子の劉彊が生まれていた。 劉秀が更始帝と敵対すると危険が迫ったが、 異母兄の陰識が挙兵していた親戚のケ奉に客将として仕えた縁で一族と共に庇護された。 劉秀が光武帝として即位すると都洛陽に迎えられ、 皇后となるよう説得されたが、 子がいないことを理由に断り郭聖通が皇后となった。 なおこの直前に郭聖通の後ろ盾である劉楊は謀反のため殺害されていたが、 郭聖通が咎められることは無かった。 その後陰麗華も長子劉陽(後の明帝)を始めとした子を産み、 皇后の郭聖通とあまり変わらない待遇を受けた。 しかし天下統一後劉秀と郭聖通の仲が悪くなり、 皇后を廃され代わりに陰麗華が皇后となった。 さらに母が廃された劉彊が皇太子を辞退し、 劉陽が同時に父の命で名を劉荘と改めた上で皇太子となった。 しかしその後も郭一族が失脚することは無く、 東海王となった劉彊も厚遇され皇太子劉荘との仲は生涯良好であった。 劉秀が亡くなると劉荘が明帝として即位し、 陰麗華は皇太后となり七年後に死去した。 陰麗華は皇后・皇太后となっても質素な生活を送り、 勲功のあった兄陰識共々一族の富貴を求めなかったため後の世に賢后と称えられた。

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