[南米−中世・近世]
ケチュア族が作った南米のアンデス文明の最後の先住民国家。
本来の名は「タワンティン=スウユ」(四邦連合) で、
その名の通り全土を4つの地方 (邦) に分けていた。
ちなみにインカとは「王」を表す言葉で、
スペイン人によってこの国を表す言葉として用いられた。
伝説では12世紀頃に初代マンコ=カパックによって建国されたとされる。
当初は首都クスコ周辺を支配する小国であったが、
9代目パチャクテクの拡張政策で急速に領土を広げ、
その領土は4つの邦に再編された。
征服と言っても多くの場合調略によって指導者を地方領主として取り込み、
自治権も認めていた。
彼らの子弟は首都クスコで教育され、より忠実な領主となった。
広大な領土を統治するため優れた街道網が整備されたが、
これはローマ街道と同様侵略者による征服を容易にした面もあった。
ピサロに率いられたスペインのコンキスタドールが侵略のために訪れたとき、
ワスカルとアタワルパ兄弟の内戦及び中米から広まった天然痘により
インカ帝国は弱体化していた。
スペイン人は数百人に過ぎなかったが、
多くの領主を買収した上で皇帝アタワルパを
謀略によって人質として捕らえることに成功した。
スペイン人は先ず傀儡を立てて間接統治し、
抵抗勢力を順次撃破していった。
そして40年後には最後の要塞を陥落させ、帝国全土の征服を完了させた。
その後先住民はスペインの暴政や
中米・ヨーロッパからもたらされた疫病によって多くが死亡し、
高度は文明も破壊された。
インカ帝国は世襲の君主制国家であり、
太陽神インティを信仰する神権国家でもあった。
中米はアステカやマヤと同様人身御供も行われていた。
ただし奴隷は用いず、
村々から徴収され神の捧げ者として大事に育てた子供が用いられた。
生贄にならず一定年齢に達した場合、社会復帰した例もあったと言われる。
アンデス山脈の辺りは大きな河は無く平野部は乾燥して農耕に適さなかったが、
高原地帯は比較的湿潤でジャガイモやトウモロコシが栽培された。
先に述べた街道を始め、石造りの建築や工芸に優れた技術を持っていたが、
鉄や火器・文字・貨幣・車輪といったものは持たなかった。
また高度な技術は貴族階級によって独占されており、
庶民は下働きとして最小限のことを教えられるだけだった。
また土地や鉱産資源などは全て国有で、
貴族でも私有財産は認められていなかった。
実際のインカ帝国は専制君主に支配された当時普通の国家であったが、
先住民インディオが迫害された歴史を持つ南米では理想化され、
今でも古き良き時代の象徴とされている。